2017年09月25日

石原純と原阿佐緒の保田への逃避行

かって保田には多くの文人がいました。
東北大学物理学教授の石原純と女流歌人の原阿佐緒も保田に在住していました。

アララギ派の歌人で、アインシュタインの相対性理論の日本への紹介者として知られた東北大学物理学教授・石原純は、女流歌人の原阿佐緒と恋に落ち、その地位も妻子も投げうって、大正10年(1921)保田に逃避行してきました。このスキャンダルは、当時一大センセーションを巻き起こしました。

松音楼(昭和に、線路脇にありました)に投宿した二人は、やがて保田小学校裏山に、洋館の新居を建て、そこに移り住みました。家はその頃出た純の詩集からとって、「靉日(あいじつ)荘」=「阿佐緒は紫花山房と呼んでいた」と呼ばれました。まるでオシドリのように仲むつまじく、地元の人たちへの短歌会を開いたりして、保田には多くの文化人が集まるようにもなりました。

しかし昭和3年、二人の愛は破局を迎え、7年間過ごした靉日荘から阿佐緒は去りました。
純は昭和22年、交通事故がもとで、靉日荘で亡くなりました。靉日荘は昭和44年に取り壊されています
(鋸南町歴史・文化案内書)

isiharajyun.jpg
(石原純と原阿佐緒)

haraasao.JPG
(保田小学校裏山にあった靉日荘)

--暖国(石原純)--

ほかほかとけふは暖かい
暖国の空のいろの
明るくふかいなかを
ゆたかな心で 私たちは歩いた
菜の花がもうすっかり黄色い
浜辺の静かな町の
砂ぶかいさくさくした路を
私たちは連れだってゆく
垣根に椿の花があかい

原阿佐緒記念館
「恋愛事件」 石原純
kikaku_8_01.jpg
原阿佐緒が「恋多き女」のイメージを強く持たれるのは、この石原純との「恋愛事件」があったためだろう。
阿佐緒と石原純の出会いは、大正六年に阿佐緒が東北帝国大学病院に入院した時であった。石原は東北帝国大学で教鞭をとる物理学者であると同時に、歌人であった。石原は学生時代に正岡子規の「歌よみに与ふる書」に影響を受け、伊藤左千夫を訪ね「馬酔木」に参加、「馬酔木」廃刊後は「アララギ」創刊時より参加し同人の一人として活動した。いわば「アララギ」の重鎮であり、仙台での「アララギ」の活動の中心人物であった。

阿佐緒も大正二年より「アララギ」に入社し、多数の短歌を誌上に発表していたことから、同結社で活動する歌人同士として石原は阿佐緒を見舞ったのである。このことを切欠に、阿佐緒は石原の家で行われた歌会へ足を運ぶようになった。また手紙のやり取りも始まり、大正八年に長男千秋の進学のために仙台へ居を移すと石原はしばしばそこを訪れたりもした。しかし阿佐緒にとっての石原はあくまで短歌の尊敬すべき先輩であり、恋愛の対象ではなかったのである。

いつしか石原の気持ちは歌人同士の繋がりの域を越え、それを率直に阿佐緒に伝えるまでに至っていた。しかし、阿佐緒はその求愛を受け入れようとはしなかった。一説には阿佐緒には別に愛する男性がいたからだとも言われている。また、当時石原には妻と子ども達がいた、と言うこともあったであろう。過去においての過ちを再び繰返したくないとの気持ちもあったかもしれない。阿佐緒は石原の求愛を避けるために仙台から宮床へと帰った。しかし石原はその宮床へも足を運ぶようになったのであった。阿佐緒は再び石原から逃れるため旅立った。行先は東京、親友の歌人、三ヶ島葭子を頼っての上京であった。葭子の家に寄宿し、しばし穏やかな生活を送っていた阿佐緒であったが、そこに講演のため上京した石原が訪れた。石原は三ヶ島葭子夫妻を説得し、阿佐緒に自分の求愛に答えるように働きかけたのである。この執拗なアピールに遂に阿佐緒は石原の愛を受け入れるに至った。

しかし、この二人の関係はすぐにアララギの関係者たちの知る所となった。島木赤彦、斉藤茂吉らが石原と阿佐緒のもとを訪れ、二人の関係を清算するよう説得を行った。大学教授であり、アララギの中心メンバーである石原が、妻子をも捨てて阿佐緒のもとへ走ったことは道義的に、また「アララギの歌人」としても許されるものではなかったのである。だが石原はこれを全く受け入れなかった。結果、阿佐緒はアララギを破門され、石原もアララギを離れざるを得なくなったのであった。

大正十年七月末、新聞各紙は一斉に阿佐緒と石原純について報じた。
「高名の物理学者情熱の歌人と恋の噂」
「歌人原阿佐緒との恋愛で東北大教授を辞職」(東京朝日新聞)
「女歌人との関係から石原博士遂に辞職」(読売新聞)
「物理学会の権威石原博士辞職 『新しい女』に禍して」(日刊山形)
「病気に堪へずとて辞表を提出した石原博士 原阿佐緒女子との経緯が直接原因」(河北新報)

記事の内容は、石原が東北帝国大学の学長に辞表を提出したこと、そしてその原因が原阿佐緒にあるとするものだった。阿佐緒は石原を誘惑した「悪魔」であり、異性を誘惑せずにいられない気質であると報じたのだ。
阿佐緒にとって思いもかけない報道であった。社会的地位のある男性を誘惑した悪女として一方的に糾弾されたのである。阿佐緒は事の顛末を、親友三ヶ島葭子は阿佐緒を擁護する文章を雑誌上に発表するが、それは報われることはなかった。

大正十一年、石原と阿佐緒は千葉県保田に「靉日荘」と呼ばれる洋館を建築、移り住んだ。海辺のこの洋館で石原は執筆に、阿佐緒は歌作や絵画の制作に励み、また三ヶ島葭子や古泉千樫、結城哀草花らの歌人が集い、仲睦まじい満ち足りた暮らしがあったかに見えた。しかし、阿佐緒にとっては必ずしもそうではなかったのだ。石原は阿佐緒に金銭の自由を許さなかったと言われている。年老いた母や子ども達に会うために故郷に帰ることも、親友三ヶ島葭子の葬儀に駆けつけることも許さなかった。また石原は別の女性に目を向け始めていた。この生活に耐えられず、阿佐緒は一人靉日荘を飛び出し、故郷へ向ったのだった。昭和三年のことだった。

kikaku_8_08.jpgkikaku_8_09.jpg
展示物写真原阿佐緒と石原純連盟の手紙
posted by らかん at 19:57| Comment(0) | 保田の歴史、文化

2017年09月04日

わが国へのすしの伝来と発展

鋸南町の気温は23℃ 曇り

カマス(梭子魚、叺)
スズキ目サバ亜目カマス科カマス属

カマスに脂がさらにのって旨味がましています!東京湾で水揚げされるのはホンカマスです。カマスは白身で上品な甘さがあります。カルシウムが他の魚と比較しても4倍強と豊富でビタミンなどの栄養価も高い魚です。脂ものり、旨味もたっぷりの旬のカマスを是非味わって頂きたいです。

kamasu11.jpg

kamasu008.jpg

わが国へのすしの伝来と発展

すし、正しくは馴れずしは東南アジアから中国へ、そして中国から我が国に伝わったものである。すしはもともと東南アジアの山地民族の間で行われていた貯蔵法で、中国の前漢末から後漢にかけて中国に伝わり、特に三国時代(220〜265年)にこの調理法が北方に普及した。初期の材料がほとんど川魚か獣肉に限られていたのもこの為です。

我が国で、すしに関する一番古い文献は 1200年前に出た賦役令(ぶやくれい)で、その中に雑鮓、鰒鮓、鮎貝鮓といった文献が出ているという。その後927年に出た延喜式には、なれずしの製法が材料の分量までのっており、さらに500年ほど後の室町時代中期には半なれずし(生成)が現われた。すし飯の自然発酵によらず初めから酢を用いて作る早ずしが始まったのは、それからさらに100年ほどした室町時代末期であった。

しかし、それはまだ一部で、一般的に普及し始めたのは江戸時代も中期になってからという。その後、次第に製造日数が短くなり、5-6日から一夜で作るようになった。この一夜ずしはそれまでの冷ました飯の代わりに熱い飯を用いたもので、それによって発酵速度を早めたものである。その後、延宝年間(1673-1680年)になって幕府の御典医松本善甫が今日のごとき即席ずしを考案し、急速にすしの普及を見るに至った。これは当時松本鮨と呼ばれたというが、松本善甫が考案したというその真偽については疑いを持つ人もいる。

このすしは一名マチャレズシとも言われた。これは今までのすしが今日より数日経てとりに来給えということから、おじゃれ(おいで下さい)、すなわちオジャレズシといわれたのに対して松本鮨は待っている間に出来るため、待ちゃれ(しばらくお待ちください)すなわちマチャレズシと言われたのであるという。

なお、この頃のいわゆる松本鮨は大阪ずし風の押しずしであったらしく、現在のようなにぎりずしが現れるたのは文政6年(1823年)、江戸両国の与兵衛ずしの華屋与兵衛の工夫によるものとされている。しかし、それより36年前の天明7年(1787年)に出た七十五日という本にも、天明の頃、のり巻、ゆば巻、笹巻鮓等が流行していたことが記されていて、多数のすし屋の名が出ていると言う。
(文献:すし調理師入門 浅見安彦、橋本常隆)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

ホウボウ、カマス、生メジマグロ、イサキ、アワビ、サワラ、サバ、サヨリ、シンコ、マコガレイ、トコブシ、クロムツ、アカムツ、タチウオ、真鯛、金目鯛、カツオ(勝浦産)、アジ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、他
(魚介は全て天然物です)

kamasu10.jpg

皆様のご来店をお待ち申し上げます。

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
連休中は、魚介が不足しますので、ご予約のお客様を優先させて頂きます
定休日は毎週木曜日です。(祝日の場合は営業)
午後6時以降にご来店の方はご予約をお願いします。
Facebookもよろしくお願いします。
タグ:カマス
posted by らかん at 11:05| Comment(6) | 寿司の歴史と雑学

コハダ寿しとすしの歴史

鋸南町の27℃ 曇り

コハダ

コハダは出世魚です。関東では、シンコ(新子は幼魚で3-4cm)⇒コハダ(小鰭は若魚で6-10cm)⇒ナカズミ(11−13cm)⇒コノシロ(鮗は、15cm以上)と成長とともに呼び名が変わります。コノシロ位の大きさになると、寿司屋では使いません。なにしろ小骨が多すぎて寿司には向きません。コハダは、江戸前すしの光り物の王道です。職人の仕込みによって味が左右されます。旨いとお客様に言っていただけるように、丁寧な仕込みを日々頑張っています。

エサをどんどんと食べて成長している、卵を抱く前のコハダの寿しです。脂がのって旨味が濃くなっています。

kohada0904.jpg
(コハダ寿し)

kohada09041.jpg
(コハダ寿し)

すしの歴史@

わが国へのすしの伝来と発展@

すし、正しくは馴れずしは東南アジアから中国へ、そして中国から我が国に伝わったものである。すしはもともと東南アジアの山地民族の間で行われていた貯蔵法で、中国の前漢末から後漢にかけて中国に伝わり、特に三国時代(220〜265年)にこの調理法が北方に普及した。初期の材料がほとんど川魚か獣肉に限られていたのもこの為です。

我が国で、すしに関する一番古い文献は 1200年前に出た賦役令(ぶやくれい)で、その中に雑鮓、鰒鮓、鮎貝鮓といった文献が出ているという。その後927年に出た延喜式には、なれずしの製法が材料の分量までのっており、さらに500年ほど後の室町時代中期には半なれずし(生成)が現われた。すし飯の自然発酵によらず初めから酢を用いて作る早ずしが始まったのは、それからさらに100年ほどした室町時代末期であった。

しかし、それはまだ一部で、一般的に普及し始めたのは江戸時代も中期になってからという。その後、次第に製造日数が短くなり、5-6日から一夜で作るようになった。この一夜ずしはそれまでの冷ました飯の代わりに熱い飯を用いたもので、それによって発酵速度を早めたものである。その後、延宝年間(1673-1680年)になって幕府の御典医松本善甫が今日のごとき即席ずしを考案し、急速にすしの普及を見るに至った。これは当時松本鮨と呼ばれたというが、松本善甫が考案したというその真偽については疑いを持つ人もいる。

このすしは一名マチャレズシとも言われた。これは今までのすしが今日より数日経てとりに来給えということから、おじゃれ(おいで下さい)、すなわちオジャレズシといわれたのに対して松本鮨は待っている間に出来るため、待ちゃれ(しばらくお待ちください)すなわちマチャレズシと言われたのであるという。

なお、この頃のいわゆる松本鮨は大阪ずし風の押しずしであったらしく、現在のようなにぎりずしが現れるたのは文政6年(1823年)、江戸両国の与兵衛ずしの華屋与兵衛の工夫によるものとされている。しかし、それより36年前の天明7年(1787年)に出た七十五日という本にも、天明の頃、のり巻、ゆば巻、笹巻鮓等が流行していたことが記されていて、多数のすし屋の名が出ていると言う。
(文献:すし調理師入門 浅見安彦、橋本常隆)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

イワシ、カマス、タチウオ、サバ、スズキ、コハダ、アワビ、クロムツ、サザエ、サワラ、ヒラメ、金目鯛、カツオ(勝浦産)、ヒラメ、トコブシ、フグ、アジ、地たこ、ヤリイカ、煮アナゴ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、イクラ醤油漬け、マグロ他

sabasusi001.jpg
(シメサバ寿し)

皆様のご来店をお待ち申し上げます

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
※9月17,18,19日は、保田地区祭礼です。(ご来店の際はご予約をお願いします)
Facebookもよろしくお願いします。
タグ:コハダ
posted by らかん at 10:24| Comment(0) | 寿司の歴史と雑学