2015年12月06日

石原純博士の自動車事故に関する新聞記事

千葉県安房郡保田町に在住していた、アインシュタイン相対性原理を初めて日本に紹介した石原純博士が事故でなくなりました。享年67 その当時の記事です。

石原純博士の自動車事故に関する新聞記事は次のように報道している。

*1947年(昭和22)1月21日 讀賣新聞【石原純博士死去】
 <石原純博士(東北帝大教授 理博)れき(原字不明)車事故で療養中のところ19日午後5時50分千葉県安房郡保田町本郷の自宅で死去、享年67、博士はアインシュタイン相対性原理を初めて日本に紹介した人で同時にアララギ派の歌人として知られ、原阿佐緒女史との恋愛事件は有名。(原文は旧字体)
 

鈴木伊三郎「石原純先生御他界の前後ー書簡の形式による」から引用。

  《その当時先生は毎週木曜日東京の岩波書店へ雑誌「科学」の編集に上京されていました。昭和20年12月中旬の木曜に上京され、金曜に帰られず岩波に照会すると「お帰りになりました」とのこと。思案にあまってそうさく願いを出しました。後でいろいろ綜合してみますと、終戦直後の交通の混乱から東京の道路でジープにはねられたらしく右腕骨折全身打撲傷でほうり出されたまま街路上に意識を失っておられ、警察では身許が分らないまま留置場に置いて保護しておったとのこと。

石原謙(当時女子大の学長)が弟だということがわかり慶応病院へ入院、約3ヶ月そこのおられたわけです。ひどい負傷で頭もすっかりやられ過去のことが殆どわからなくなりました。右腕切断ということでしたが、右手のことなので腰から上、右手のつけ根までギブスをはめて右腕を支えて手先だけは何とか動かせるように処置されました。昭和22年1月19日に死去(67歳)されるまでの堀内[耐子]氏の努力は涙ぐましいほどでした。[中略]先生の体を抱いて棺に入れたのは、松音旅館の主人(故昼田昇)と私だけです。私が仰向けの先生の両腕下へ腕を入れ背中を支え昼田さんが腕から足を抱かれました。[中略]棺の中へは水仙の花をいっぱい埋めてあげました。》

ここに、“ジープにはねられたらしく”とあるが、当時車といえば進駐軍のジープが多かったのでそう思われてもおかしくない。車がジープであるか否か、またそれが単なる事故であったか否か、確かなことはわからない。

日本製原爆完成全文より
posted by らかん at 08:58| Comment(0) | 保田の歴史、文化
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