2015年12月21日

【千葉県館山市史】より「石原純・原阿佐緒」について当時の状況

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【千葉県館山市史】から、「石原純・原阿佐緒」の当時の状況について、書かれた部分を以下に転載します。

館山市史(発行:昭和46年7月1日)
p1026 6安房美術と石原純・原阿佐緒

大正12年9月1日の関東大震災は、房州にもおびただしい被害を与えた。東京は地震そのものの被害は軽微だったが、火災の発生によって、焼野が原と化したのだといわれる。それに比較すれば、房州特に北条、館山付近は、直接地震によって受けた被害が、はるかに甚大で惨憺たるものであったという。それほど震災の被害が大きかった房州は、復興工事も遅々として捗らなかった。

震災前まではおびただしい海水浴客を迎えていた館山湾沿岸は、まだ海水浴客を迎えるほどに復興せず、漸く住宅だけをバラック建てにし、雨露をしのいでいた。そういう状態の北条町で、大正13年7月に、早くも美術展覧会が開かれたのだから、一般からは好奇の目で見られたに違いない。中には「いいご身分の人たちがいたものだ」となかば嘲笑的にいう人たちもあった。

主催者は、この美術展覧会を開催するために、俄に結成された「安房美術会」という団体であった。出品者の顔触を見ると、アララギ派の歌人であり、アインシュタインの相対性原理の権威である理学博士石原純、その恋の相手であり、同じアララギ派の美人歌人原阿佐緒などの名前も見える。

石原博士は東北帝国大学の勅人教授という地位にあり、また立派な家庭も持ち子供までありながら、その地位も家庭も弊履の如く捨てて、美人歌人原阿佐緒との熱烈な恋愛を成就させるため、大正11年11月以来、房州保田町(現鋸南町)に来て、しばらく旅館住居をしていたが関東大震災の年の初夏、2人のために住居を建築しそこに住んでいた。

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(ネットの拾い物ハガキ。当時の松音楼)

このご両人をはじめとして、日本画の金森南耕、石井君子、中村有楽等で、日本画あり油絵あり、水彩画あり書がありでバラエティに富んでいた。会場は大正4年の創業という、レストラン鏡軒であった。そういえば素晴らしい会場のように聞こえるだろうが、その実、この鏡軒も前年の地震で潰れ、まだ復興もせず、ようやく海水浴客が入り込む季節を迎えたバラックの葭簀張り(よしずばり)の小舎で、営業をはじめたばかりのところである。

もっとも、町内の建物という建物は、ほとんど倒れ。人の5、6人も集まることがあれば、その会場探しに苦労した時代でもあるから、バラックでも葭簀張りでも、会場があっただけでも見つけものであった。この「安房美術会」の誕生には、光雲・斎藤喜市・有楽・中村弥二郎の力が大いに預っている。光雲は人も知る眼科医で、俳人であり日本画も描けば油絵も描くという多芸の人である。

有楽はつい先ごろまで、東京で「東京パック」という大人向きの月刊漫画雑誌を経営発行していた文化人で、傘下には北沢楽天、下山凹夫、池部均その他、当代一流の漫画家が集っていた。その有楽が北条町八幡に来て、地方文化の向上のために、豪華な極彩色の地方雑誌「楽土の房州」を発行していたから、北条の文化人光雲とは大いに共鳴し合い、たちまち「安房美術会」の誕生となったのでる。

大正12年の夏、保田小学校裏の山の中腹に土地を求めた、石原純、原阿佐緒の両人は、石原博士自身設計して、文化住宅風の愛の巣を建てた。阿佐緒は断髪で、小娘の着るような派手な柄の和服を着たり、毛皮のオーバーを着たりして、常に厚化粧をしていたから、特に人目をひいたものである。石原博士はどこへ行くにも、その阿佐緒と鴛鴦(おしどり)のように仲よく出かけた。それが地元の人たちを強く刺戟したと見えて、なかには嫉妬半分で悪口をいうものも少なくなかった。

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「土から生れたような純朴な田舎の子どもや若い者たちの前では、少し考えて貰わなければ困る。ご両人は別に真似ろといって、あんな服装や態度をしているのではあるまいが、お一人は大学の勅任教授をされた方、お一人は歌人として有名な方だ。お二人はああして歩かれることは、真似るものが出るに違いない。もちろん真似るのも悪いといわれればそれまでだが、全く困ったものです」

一部の極端な評者は、保田町から去って貰った方が、教育上大いに助かる、というものもあった程である。またある者は、女学校長の口を借りてまで両人を非難したものもあった。そうした世間のいろいろな噂が、直接両人の耳に入ったかどうか、それはわからないが、大正15年ころから阿佐緒の服装が、やや地味になったことは事実である。

石原、原の両人が、住宅を新築した前後に石原博士は「靉日」という歌集を出版したため、ジャーナリストはすかさず、この家に「靉日荘」とか「靉日山荘」とかいう名をつけた。それが正式名称のように思われた。しかし両人はこの家を「紫花山房」と名づけ、自分たちではそう呼んだり、書くものにもそう書いていた。

保田の町民から両人が非難されたのは、あまりにも仲睦まじい間柄を嫉妬してのことと見てよいが、そんな一方では、この両人は房州の文化の向上に、大いに貢献したといってよいだろう。いままでは、田舎の小さな半農半漁の街として、普段は滅多に名士など来なかった保田町は、歌壇で名前を知られた人、学者、著述家、画壇の知名人、出版関係者などが、ほとんど毎日のように訪れて来た。当時の房州の文化の中心地は、北条町よりもむしろ、保田町に移った感があった。

房州の若い歌人たちは、両人を慕ってやって来た。その人たちのために「保田短歌会」を起して、毎月1回松音楼旅館で短歌会を開いた。房州出身の歌人で石原純とともに、歌誌「日光」の同人であった古泉千樫も、帰省したついでに、この会に臨んだこともあれば、田圃歌人と謳われた印旛沼の植庄亮も、この会に出席したことがある。若い歌人たちは、石原、原両人を中心として、月刊短歌雑誌「波止場」を発行し、歌道の精進に務めたが、その「波止場」も、第2号が出ただけで尻切れトンボになったのは、かえすがえすも惜しまれる。

阿佐緒は、毛糸編物が得意で、素晴らしい技術を持っていたが、そのことがいつか保田町の有志婦人の間にも知れわたったため、「紫花山房」に集って、編物講習会を受けるものが続出した。大正15年の冬には、阿佐緒は自身の制作品や、受講者の作品を集めて即売会を兼ねた展示会を開いた。当時、北条善導会館(現館山市公民館)の敷地内に建っていた北条文庫(北条町教育談話会経営)がその会場であった。3日間にわたって開催されたが、即売会は相当の売り上げがあったところと見ると、阿佐緒の技術は、その道の専門家を凌ぐものがあったに違いない。

安房美術会は第2回美術展覧会を、新築落成間もない安房復興館(現安房支庁舎)で開き、その後も会場は転々として変ったが、毎回入場料を取りながら、かなりの入場者があり、地方文化の向上に大きな役目を果した。しかし、保田町に居住していた石原、原両人が昭和3年9月末から、東京に去ってからというもの、安房美術会展も骨が抜けたような形となった。もっとも、保田町は元の静けさを取り戻したような感があった。

安房美術会が、毎年1回美術展会を開催したおかげで、房州人の美術思想が次第に向上したことは歪めない。その点では大きな功績を残したといってよい。特に昭和9年5月25日から31日まで、東京日本橋・白木屋デパートの7階で開催した「房州風景紹介展覧会」は大英断の試みであったが、出品中に売約済みが相当あって、成績は頗る良好、予想外の成功を収めたのは何よりの自慢である。

この展覧会は、安房美術会とすれば、第15回展覧会であったが、はじめての東京進出だけに、開催に当たっては充分慎重を期し、実行委員5名を上げた。その顔触は斎藤光雲、金森南耕、西宮六白子、本堂龍城、小林猶治郎である。この会を東京で開催した目的は、館山湾をはじめ房州には、夏の海水浴に適した土地がたくさんある。海水浴には向かないが、景色のよいところも多い。それらの風景を東京人に紹介し、海水浴客ばかりでなく、一般観光客を呼び寄せようというのである。だから、房総観光協会、東京湾汽船株式会社その他の後援を得て開催したのである。結果として意外に好評を博し、売約済みの札の張られた作品も多く、予期以上の成功を納めたのは幸運であった。

この安房美術会も、日華事変が勃発してからは、展覧会どころでなく、腕を拱いていたずらに制作欲を燃やした。しかし安房美術会の有力メンバー斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の3人は、日華事変勃発1周年を迎えようとする昭和13年4月3日。大陸戦線で勇猛果敢に戦いながら、壮烈な戦死を遂げ、声なき凱旋をして肉親や郷党の涙をさそった勇士たちの遺影を、油絵肖像に揮毫し、遺族に贈呈する計画が纏まった。・・・肖像画は館山北条町出身の11勇士と、寄留者2勇士計13人勇士のものである。

この肖像画のほかに46版型のパンフレット「事変の華・館山北条町11勇士」を印刷した。この中には戦歿者の肖像画を写真版で挿入し、簡単な戦歴まで付記した。この小冊子は遺族に贈呈したほか、各方面に寄贈し、輝かしいその戦功をたたえたのである。巻頭言に「昭和13年7月7日、支那事変1周年記念日。この油絵肖像画(6号型額縁付)を無言の凱旋者御遺族に贈呈す」と記してある。

3人の合作によって完遂できた、戦没者肖像画贈呈の美挙は、時の千葉県知事多久安信に認められ「銃後の彩管報告者」として斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の名前で表彰状が授与された。・・・会長に夏井清を推戴したが、何分にも運営がうまくゆかず、いくばくもなくして再び会長は斎藤光雲を戴いて現在に及んでいる。90歳の高齢でありながら、いまなおかくしゃくとして制作に従事しているばかりでなく、展覧会場の飾り付けには率先して働いているのは、敬服に値する。若い人たちは鑑みとすべきである。
(日本製原爆完成全文より)

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posted by らかん at 08:19| Comment(0) | 保田の歴史、文化
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