2024年02月06日

玉子寿しとその歴史

鋸南町の気温4℃ 曇り

※2月6日(火)休業いたします。
※ご来店時はご予約をお願いします。

玉子の寿し

玉子の寿しの由来について、はっきりとした文献はありませんが、関西の寺で出されていた精進料理の箱寿しに供されていた玉子焼きが最初と言われます。江戸後期、箱寿しから握り寿しが主流になり、刻んだ玉子が握りの玉子へと形が変わったという事でしょう。

PXL_20220904_230945778_470.jpg

「すしは三都とも押鮓なりしが、江戸はいつごろよりか箱ずし廃し握りずしのみとなる。箱ずしの廃せしは五.六十年以来成り、箱ずしというは、方四寸ばかりの下図のごとき箱に飯を塩と監を合せ、まず半分入れ、しょうゆ煮の椎茸を細かに切りこれを入れ、また飯をのせ下図のように玉子焼き、タイの刺身、アワビの薄片をのせ、縦横十二に切る。横四つ縦三つ、おおよそ十二片とする。
中央の四隅は玉子で、黒きはしいたけ、白きはタイのさしみまたはアワビの片身である」
『守貞謾稿』(1853)より

edozushi-morisada.gif
『守貞謾稿』鮓の図

握りずしの出現は、江戸後期の文政年間(1818−30)で、当時、忙しい商人が早く食事が出来るようにと早寿しが握りすしの主流になりました。

『守貞謾稿』には、握りずしの種類として、鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮が記載されています。また、「鯛・鮃(ひらめ)は肉白く、鮪の属は赤肉なり。この赤白二種を並べ盛るを作り合せといふ」とあります。

このように、見た目の色合いの美しさを演出したり(鮪の赤、白身の白、玉子の黄)、当時江戸でも流行りだったカステラ(16世紀の室町時代末期にポルトガルの宣教師によって平戸や長崎に伝えられたとされる)のようなデザートとしての役目もあったと思います。

当時は、肉は食用禁止だったが、二本足は許されていたので魚だけではなく、江戸の職人が工夫して焼いた玉子の寿し(魚をほぐして入れたり工夫があった)を作ったのでしょう。

※肉食禁止は、大乗仏教の影響がありました。大乗のいくつかの経典で肉食禁止が説かれますが、最も有名なのは大乗の『涅槃経』でこの経典は、一切衆生に仏性があると説き非常に影響力がありました。その中心的思想から肉食の全面禁止が打ち出されましたが、それでも庶民は隠れて肉を食べていたようです。見つかると処罰は厳しかったようですが。

IMG_20190202_102721_470.jpg

IMG_20190202_102956_470.jpg

IMG_20190202_103315_470.jpg


20170121_101708_470.jpg

たまご寿しの形が現代のようになったのは、江戸時代、カステラは長崎で作られていましたが、やがて江戸でも作られるようになり江戸の住民に親しまれていました。幕府が京都の勅旨(持参の役人)を接待する際には、カステラが出されていたとの記録が残っているようです。この影響で、箱寿司に使われていた刻んだ卵焼きを握りにする際のヒントになったと思われます。

20180618_100919_470.jpg

※カステラの製法は江戸時代の製菓書・料理書に数多掲載され、茶会でも多く用いられた。その一方で、カステラは鶏卵・小麦粉・砂糖といった栄養価の高い材料の使用から、江戸時代から戦前にかけて結核などの消耗性疾患に対する一種の栄養剤としても用いられていたこともある。

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

カワハギ、アカムツ、クロムツ、メジマグロ、ヒラメ、シマアジ、サワラ、タチウオ、花鯛、真鯛、煮アナゴ、サザエ、アジ、シメサバ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、ウニ、アワビ、自家製玉子焼き、他
(魚介は全て天然物です)

皆様のご来店をお待ち申し上げます

※休業日:毎週木曜日
※休祝日・連休・お盆期間中はご予約の方を優先させていただきます。
※午後6時以降のご来店はご予約をお願いします。
らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
TEL:07042330463

Facebookもよろしくお願いします。
タグ:玉子寿し
posted by らかん at 09:28| Comment(0) | 寿司の歴史と雑学

2023年01月11日

すしの字考(すし風土記より)

鋸南町の気温は5℃ 晴れ

※ご来店時はご予約をお願いします。

水仙の開花状況は、こちらです。
または、をくづれ水仙郷&佐久間ダム湖です。
気温が高いので、お客様の話では水仙の花も良く咲いているようです。

カンサワラ(寒鰆)
スズキ目サバ亜目サバ科

寒くなると脂がのり甘みが増す今の時期のサワラをカンサワラ(寒鰆)といいます。益々、旨味が増して、お客様から美味しい!と喜びの声が聞こえてきます。海水温も下がってきたので、海の魚たちも餌をたくさん食べて、旨味が増して脂ものっています。

PXL_20221018_063236942_470.jpg

特に寒鰆は脂の乗ったサンマやイワシを餌に成長するので、EPAやDHAが非常に多くDHAはサンマより多く栄養価が高いです。脂肪が14〜16%もあり、インドマグロの様にトロリとした食感と旨味があります。

PXL_20221018_063334830_470.jpg
(寒サワラ寿し、脂がのっています)

すしの字考(すし風土記より)

どういうわけか、私達の先祖はすしの字を古くは鮨、次には鮓、そして再び鮨と使い分けている。
もし、鮓と鮨の区別を尋ねられて書き分けの歴史をも含めて、すぐに正確に答えられる方は、学者かそうでなければ、余程のすし好きに違いない。

鮓と鮨とは、いったい基本的にどこが異なっているのだろう。文字の国、中国の辞書をまず調べる必要があろう。
中国で、史上二番目の辞書「説文」には、「鮨は魚の塩辛である」と記し、中国で三番目の辞書「釈名」には、「鮓とは塩と米で醸すつけものに似ている」と記録している。つまり、「鮨と鮓の区別は?」と問われたら「魚偏に旨の方はシオカラ」「乍の方はすし」と答えておけば無難だろう。

ところがどうしたわけか、平安時代の人たちは、その塩辛の方の字をすしに使ってしまった。「延喜式」のすしも鮨、「今昔物語」など記録文字のすしの字も、すべて鮨。
この時代のすしは、近江の鮒ずしのような馴れずしばかりゆえ、馴れずしイコール鮨と考えておこう。

時代が下がって、元禄(1688〜1704年)から安永(1772〜1781年)にかけての俳句を調べてみると、芭蕉一門の去来や惟然は、鮨と鮓の両刀使いだが、蕪村の句のすしの字はすべて鮓に限っている。
蕪村が句によんでいるすしは、主として、一夜ずし、すずめずしだから、すし学上は蕪村の句は生成をよんだと考えて良い。

去来や惟然の句の中には、生成と馴れずしとの二種がある。馴れずしには鮨の字、生成には鮓を使い分けていた形跡がある。つまり、飯と魚をともに食べる生成の発明が、鮨の字を廃して鮓の字を使い始めた理由と見なしてよいだろう。

さらに時代が下がって、江戸時代の末期から明治、大正にかけては、川柳も俳句も文字も再び鮨の字を使い始める。

酢を使った早ずしが発明されたのは、江戸時代の延宝(1673〜1681年)のころのこと。それまでのすしは生成だから、「今日ヨリ幾日経テ取リニ来給へト云フニヨリ、コレヲオヂャレズシト云ヒ・・」ということになる。
そのオヂャレズシが酢を使うすしの発明によって、「直ニ出来ル故ニ、マチャレズシト云ヒ、又早鮓トモ云フナリ」と、「難波江」の著者は記している。

ところで、この時代には、「元来スシハ・・飯と魚トヲマゼテ置クニ日数経レバオノヅカラスミノ出ヅルモノニテ、酢ヲ加ヘテ製スルモノニアラズ、鮨ノ字ヨリハ、鮓ノ字ノ方ヨロシ」(難波江)とある。要するに、生成には鮓の字がよろしいとの判断である。この判断は、蕪村の句が鮓の字を使っている事実とも一致している。

では、なぜ江戸時代の末期以降に、ふたたび鮨の字を使い始めたのだろう。

理由は一つしかないだろう。握りずしの発明と普及である。江戸っ子が握りずしを発明して、江戸の町に握りずしが普及し始めるとともに、川柳子も鮨の字を使い始め、明治に入るとともに、俳句も文字も、ほとんど鮨の字を使っている。
(すし風土記C 近藤弘著・昭和49年)


本日の寿司種です。(ご来店時は、ご予約をお願いします)

アマダイ、タチウオ、カンパチ、シマアジ、金目鯛、真鯛、花鯛、サワラ、コハダ、赤貝、アオリイカ、クロムツ、アジ、アナゴ、ウニ、サバ、サザエ、アワビ、たこ、ヒラメ、自家製玉子焼き、他
(魚介は全て天然物です)

皆様のご来店をお待ち申し上げます

※午後6時以降のご来店はご予約をお願いします。
らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話(0470551004)でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
TEL:0470(55)1004
Facebookもよろしくお願いします。

posted by らかん at 09:37| 寿司の歴史と雑学

2023年01月04日

すし飯の話


すし飯の話(すし風土記 近藤弘著より 昭和49年) 

すし飯には、どの店も人知れぬ苦心を重ねていた。炊き上がったご飯を半簠(ハンボ)に入れて、うちわで扇ぎ、粘りをとることも大切なコツの一つ。煽りながら混ぜる酢とニキリ(醤油、みりんにカツオ節を入れて、ちょっと沸かす)の量には、店それぞれの秘伝があった。

酢は、「寿司金」では、ミツカンの赤酢を使っていた。酢の量は米の一割から一分。つまり、米が二升なら二合から二合二勺。塩は米二升に15匁 前後。昔は20匁近く入れたとのこと。塩が多ければ酢のききは強い。昔の客は酢の強いものを好んだわけだ。

「震災前は、全部出前でしょう。おやじは出前のすしを握りたてと同じように、召し上がって頂くのに苦心してました。竹の小さな柄杓を小刀で削りましてね、お酢とニキリの混ぜ加減を決めるのにとても気を配ってましたねえ」と鈴木守さんの思い出である。

タネの味を生かすも殺すも飯の酢加減一つで決まるらしい。昔気質の職人は異口同音に、「今は楽になりましたねえ」という。
握ったものを目の前で召し上がってくださるし、タネは昔のように、煮物、酢の物でなくて、生で何を握っても食べてくださるし・・と、楽な理由を数え上げながら、ある職人は嘆いていた。「今じゃ、納豆をのりで巻いてもめしあがっちまいますからねえ。昔のお客さんに、そんなもの出したら、ひっぱたかれましたでしょうねえ」と。
(すし風土記 近藤弘著より 昭和49年)

susi0507.jpg
posted by らかん at 18:19| 寿司の歴史と雑学