2017年09月04日

コハダ寿しとすしの歴史

鋸南町の27℃ 曇り

コハダ

コハダは出世魚です。関東では、シンコ(新子は幼魚で3-4cm)⇒コハダ(小鰭は若魚で6-10cm)⇒ナカズミ(11−13cm)⇒コノシロ(鮗は、15cm以上)と成長とともに呼び名が変わります。コノシロ位の大きさになると、寿司屋では使いません。なにしろ小骨が多すぎて寿司には向きません。コハダは、江戸前すしの光り物の王道です。職人の仕込みによって味が左右されます。旨いとお客様に言っていただけるように、丁寧な仕込みを日々頑張っています。

エサをどんどんと食べて成長している、卵を抱く前のコハダの寿しです。脂がのって旨味が濃くなっています。

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(コハダ寿し)

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(コハダ寿し)

すしの歴史@

わが国へのすしの伝来と発展@

すし、正しくは馴れずしは東南アジアから中国へ、そして中国から我が国に伝わったものである。すしはもともと東南アジアの山地民族の間で行われていた貯蔵法で、中国の前漢末から後漢にかけて中国に伝わり、特に三国時代(220〜265年)にこの調理法が北方に普及した。初期の材料がほとんど川魚か獣肉に限られていたのもこの為です。

我が国で、すしに関する一番古い文献は 1200年前に出た賦役令(ぶやくれい)で、その中に雑鮓、鰒鮓、鮎貝鮓といった文献が出ているという。その後927年に出た延喜式には、なれずしの製法が材料の分量までのっており、さらに500年ほど後の室町時代中期には半なれずし(生成)が現われた。すし飯の自然発酵によらず初めから酢を用いて作る早ずしが始まったのは、それからさらに100年ほどした室町時代末期であった。

しかし、それはまだ一部で、一般的に普及し始めたのは江戸時代も中期になってからという。その後、次第に製造日数が短くなり、5-6日から一夜で作るようになった。この一夜ずしはそれまでの冷ました飯の代わりに熱い飯を用いたもので、それによって発酵速度を早めたものである。その後、延宝年間(1673-1680年)になって幕府の御典医松本善甫が今日のごとき即席ずしを考案し、急速にすしの普及を見るに至った。これは当時松本鮨と呼ばれたというが、松本善甫が考案したというその真偽については疑いを持つ人もいる。

このすしは一名マチャレズシとも言われた。これは今までのすしが今日より数日経てとりに来給えということから、おじゃれ(おいで下さい)、すなわちオジャレズシといわれたのに対して松本鮨は待っている間に出来るため、待ちゃれ(しばらくお待ちください)すなわちマチャレズシと言われたのであるという。

なお、この頃のいわゆる松本鮨は大阪ずし風の押しずしであったらしく、現在のようなにぎりずしが現れるたのは文政6年(1823年)、江戸両国の与兵衛ずしの華屋与兵衛の工夫によるものとされている。しかし、それより36年前の天明7年(1787年)に出た七十五日という本にも、天明の頃、のり巻、ゆば巻、笹巻鮓等が流行していたことが記されていて、多数のすし屋の名が出ていると言う。
(文献:すし調理師入門 浅見安彦、橋本常隆)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

イワシ、カマス、タチウオ、サバ、スズキ、コハダ、アワビ、クロムツ、サザエ、サワラ、ヒラメ、金目鯛、カツオ(勝浦産)、ヒラメ、トコブシ、フグ、アジ、地たこ、ヤリイカ、煮アナゴ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、イクラ醤油漬け、マグロ他

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(シメサバ寿し)

皆様のご来店をお待ち申し上げます

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
※9月17,18,19日は、保田地区祭礼です。(ご来店の際はご予約をお願いします)
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タグ:コハダ
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2017年09月02日

シメサバ寿しと東京ずし雑話

鋸南町の気温は21℃ 曇り

マサバ(金谷産)
スズキ目サバ科サバ属

マサバには、血液をサラサラにし、動脈硬化の予防や高血圧の予防、高脂血症の改善効果が期待される必須脂肪酸の一種であるEPA、DHAが豊富に含まれます。

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(シメサバ寿し、脂がのっています)

また、疲労回復や細胞の再生に効果があるとされる、ビタミンB群や健康と若さを保つビタミン類が多く含まれます。さらに鉄、亜鉛、セレンなどのミネラルも含まれ、貧血予防や免疫機能の向上などにも良いとされますし、お酒が好きな方には、肝機能強化に期待できるアミノ酸のタウリンも含まれますので、是非召し上がって頂きたい魚です。

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(シメサバ寿し 脂がのっています)

東京ずし雑話・篠田統著

すしを手でつまんで食べるのが粋だというが、この頃のように都会の空気以下万事が汚染されている世の中で、口に入れるものを手でつまむなんて不衛生な話だ。ハンカチの半分くらいのタオルで指先を拭いたって何ほどきれいになるものか。江戸前の握りずしでもどしどし箸で食べるがよい。

久保田万太郎がすしの赤貝をのどに詰めて死んだ由。昔はあんな粘るものは必ず塩をきかせた酢でサッと洗ったものだが、近頃は新鮮さを大切にしすぎて、その手続きをしないから、あんな悲劇が起こる。マグロのトロも海苔ではさんだし、エビは塩物が多かったので十分塩出しをし、(味が失せてしまうので)香りの高い芝エビのデンブを間にはさんだ。おどりを食べるものなんかいなかった。

※おどりは、京都からはじまったと「蛸竹」の老人だったかに聞いた事がある。

東京のすしは辛口で上方のが甘口だとは、ひと口には言い切れない。両国の与兵衛は震災後やめちゃったが、まるで菓子のように甘かった。競争相手の松之鮨が辛口だったので、わざと甘くしたのかもしれない。

酢も酒と同様に木香が大切だ。瓶や甕(かめ)に詰めたのと樽詰とでは、香りに相当のひらきがある。昔は、すしを握った後で石鹸で手をよく洗って電車に乗っても、つり皮を掴む手が「酢くさい」と言われたが、この頃は水で洗っただけでもにおいは消えてしまう。

今はすしを皿に平たく並べるのが流行だが、昔は皆、盛り上げたものだ。昔は堅気の家に平たく並べて出前すると「おれん家じゃ台屋に注文した覚えはねえ」とつっ返されたことすらあった。吉原の台の物置では見てくれの良いように広く並べたてたものだった。

今のすしは飯が少なすぎる。だから口ン中が生臭くなってしまう。昔は「五貫のチャンチキ」といって、握り五つと巻二つ(チャンチキとは馬鹿囃子の太鼓の撥が二本だから)で十分腹が張るはずだった。

すし屋には世間の景気が端的に響く。浜口内閣が金輸出を禁止したときも、その日の午後から客が半減した。12月になると、店を開いて夜半の11時半までに客が一組という日が三日続き、すっかり悲観して店をたたもうとしたら、おふくろにハッパかけられて思いとどまった。これも思い出の一つだ。
(篠田統著・すしの本・昭和55年)


本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

ホウボウ、カマス、生メジマグロ、イサキ、アワビ、サワラ、サバ、サヨリ、シンコ、マコガレイ、トコブシ、クロムツ、アカムツ、タチウオ、真鯛、金目鯛、カツオ(勝浦産)、アジ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、他
(魚介は全て天然物です)

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皆様のご来店をお待ち申し上げます。

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
連休中は、魚介が不足しますので、ご予約のお客様を優先させて頂きます
定休日は毎週木曜日です。(祝日の場合は営業)
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2017年04月19日

すし人と弥生人



すし人と弥生人(すし風土記 近藤弘著)

手はじめに、日本人の原点を”すし”から推理してみよう。民俗学の大家、柳田国男先生を初め、最近では考古学者の江上波夫博士も日本人の先祖を米作文化と結び付けている。つまり、中国大陸から米文化を持ってきた人たちが、私達の直接の先祖というわけだ。

では、その弥生人は、いつごろ日本にやって来たのだろう。前三世紀ごろという点では、多くの学者の意見は一致している。すし好きというよりも、すし狂に近い私からみると、弥生人と「すし人」とは違ってくるのだから興味がつきない。

私のいう「すし人」がイコール弥生人としたら、前三世紀の中国大陸には、すし文化がなくてはならぬ。ところが、そんな早い時代に、すし文化は中国大陸には存在しなかった。中国最古の辞書「爾雅・じが」には、鮨の字はあるが、これは「すし」ではなくて塩辛である。

中国三番目の辞書「釈名」に、「鮓(サ)は魚を塩と米でかもして作る。大きな魚でつくれば「鮺・サ」と呼び、小さな魚でつくれば「䰼・キン」と呼ぶとある。南方の人は、すしをキンと呼び、北方の人はサというなどとも付されているが、詳しい解釈は、この際、目をつむろう。

「釈名」に記された鮓こそ、日本のすしの先祖であることは、ほぼ誤り無い。何しろ「釈名」のすしの作り方は、近江の鮒ずしの作り方とそっくりなのだ。科学的な中国人は魚の大小によって、すしの名をはっきりと区別しているから、さしずめ、マグロのトロなどはサ。コハダ、アジのすしなどはキンに入るだろう。

少なくとも「すし食いねえ」などと単純な発想では当時の中国人には通じない。「サ食いねえ。今度はキン食いねえ」と、正確に魚の大小を言わねばならなかっただろう。

さて、推理を始めよう。紀元前三世紀頃に日本列島を訪れた弥生人は、すしを知らないのだから弥生人が日本列島にすしを持参したはずが無い。ずっと時代が下がって、奈良時代あたりの遣隋使、遣唐使たちだろうか。戒律の厳しい僧侶が生ぐさいすし文化を導入したろうか。これも違うようだ。

では、時代をさかのぼり邪馬台国のナゾを巡って諸説粉々している、いわゆる魏志倭人伝の時代だろうか。私にはそうとも考えられない。すし人渡来のナゾをコイずしが握っていると私は推理している。

ここで、すし党の皆さんに知っておいて頂きたい事がある。すし好きは今も昔も自分の好きな魚をすしに作りたがる。日本人の好きな魚といえば、まず、アユ、サケ、タイ、サバ。すしを知って間もなく、私達の先祖は、アユ、サケ、タイ、サバなどのすしを作り始めた。

さて、コイ好きの中国人の事ゆえ、すしを知ると間もなく、コイずしを作っている。ところが、そのコイずしが平安時代の記録にどうしても見当たらない。奈良・平安朝の日本人は、コイずしを知らなかったと見なして良いだろう。

そこで私はコイずしこそ「すし人」渡来のナゾを解くかぎと推理したのである。

われらすし党のご先祖様「すし人」は、大陸の初期のすし文化を知ってはいたが、コイずしは知らなかったのではあるまいか。つまり「すし人」が渡来した時代は、当然、中国大陸にすしが生まれてからだが、コイずしは、まだなかった時代とみる。

すし博士の篠田統さんによると、コイずしが文献に現われる時代は、晋の時代。つまり、「すし人」渡来の時代は晋の時代を下限とし、「釈名」の時代を上限とする、わずかな時代にしぼられるわけだ。「釈名」が編纂された時代は、三世紀の中ごろ。すし文化が日本列島に渡来した時代をずばり指摘すれば、その時代は、三世紀後半から、せいぜい四世紀の初期と考えて良いだろう。

私のいう「すし人」を第二波の弥生人と考えてみても良い。ともあれ、すしから見れば弥生人は、少なくとも二派に分かれて日本列島にに訪れている。

三世紀後半から四世紀にかけてと言えば、日本列島はちょうど、古墳時代の曙を迎えたころ。ここで私は、いささか飛躍した推理を試みたい。古墳時代は「すし人」が開拓したのではないかと。それが事実ならば、すし党にとって、こんなうれしい話はない。(すし風土記B 近藤弘著)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

カマス、甘鯛、真鯛、春日子鯛、金目鯛、ヤガラ、カツオ(勝浦産)、サヨリ、アジ、イワシ、サバ、コハダ、サワラ(金谷)、タチウオ、アマダイ、ホウボウ、クロムツ、ヒラメ、地たこ、アオリイカ、ヤリイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、アサリ、赤貝、自家製玉子焼き(有精卵使用)、ウニ、イクラ醤油漬け、他

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(鯛寿し)

皆様のご来店をお待ち申し上げます。

らかん寿し松月HP
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お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
※連休中は、魚介が不足しますので、ご予約のお客様を優先させて頂きます
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posted by らかん at 09:32| Comment(0) | 寿司の歴史と雑学