2017年04月19日

すし人と弥生人



すし人と弥生人(すし風土記 近藤弘著)

手はじめに、日本人の原点を”すし”から推理してみよう。民俗学の大家、柳田国男先生を初め、最近では考古学者の江上波夫博士も日本人の先祖を米作文化と結び付けている。つまり、中国大陸から米文化を持ってきた人たちが、私達の直接の先祖というわけだ。

では、その弥生人は、いつごろ日本にやって来たのだろう。前三世紀ごろという点では、多くの学者の意見は一致している。すし好きというよりも、すし狂に近い私からみると、弥生人と「すし人」とは違ってくるのだから興味がつきない。

私のいう「すし人」がイコール弥生人としたら、前三世紀の中国大陸には、すし文化がなくてはならぬ。ところが、そんな早い時代に、すし文化は中国大陸には存在しなかった。中国最古の辞書「爾雅・じが」には、鮨の字はあるが、これは「すし」ではなくて塩辛である。

中国三番目の辞書「釈名」に、「鮓(サ)は魚を塩と米でかもして作る。大きな魚でつくれば「鮺・サ」と呼び、小さな魚でつくれば「䰼・キン」と呼ぶとある。南方の人は、すしをキンと呼び、北方の人はサというなどとも付されているが、詳しい解釈は、この際、目をつむろう。

「釈名」に記された鮓こそ、日本のすしの先祖であることは、ほぼ誤り無い。何しろ「釈名」のすしの作り方は、近江の鮒ずしの作り方とそっくりなのだ。科学的な中国人は魚の大小によって、すしの名をはっきりと区別しているから、さしずめ、マグロのトロなどはサ。コハダ、アジのすしなどはキンに入るだろう。

少なくとも「すし食いねえ」などと単純な発想では当時の中国人には通じない。「サ食いねえ。今度はキン食いねえ」と、正確に魚の大小を言わねばならなかっただろう。

さて、推理を始めよう。紀元前三世紀頃に日本列島を訪れた弥生人は、すしを知らないのだから弥生人が日本列島にすしを持参したはずが無い。ずっと時代が下がって、奈良時代あたりの遣隋使、遣唐使たちだろうか。戒律の厳しい僧侶が生ぐさいすし文化を導入したろうか。これも違うようだ。

では、時代をさかのぼり邪馬台国のナゾを巡って諸説粉々している、いわゆる魏志倭人伝の時代だろうか。私にはそうとも考えられない。すし人渡来のナゾをコイずしが握っていると私は推理している。

ここで、すし党の皆さんに知っておいて頂きたい事がある。すし好きは今も昔も自分の好きな魚をすしに作りたがる。日本人の好きな魚といえば、まず、アユ、サケ、タイ、サバ。すしを知って間もなく、私達の先祖は、アユ、サケ、タイ、サバなどのすしを作り始めた。

さて、コイ好きの中国人の事ゆえ、すしを知ると間もなく、コイずしを作っている。ところが、そのコイずしが平安時代の記録にどうしても見当たらない。奈良・平安朝の日本人は、コイずしを知らなかったと見なして良いだろう。

そこで私はコイずしこそ「すし人」渡来のナゾを解くかぎと推理したのである。

われらすし党のご先祖様「すし人」は、大陸の初期のすし文化を知ってはいたが、コイずしは知らなかったのではあるまいか。つまり「すし人」が渡来した時代は、当然、中国大陸にすしが生まれてからだが、コイずしは、まだなかった時代とみる。

すし博士の篠田統さんによると、コイずしが文献に現われる時代は、晋の時代。つまり、「すし人」渡来の時代は晋の時代を下限とし、「釈名」の時代を上限とする、わずかな時代にしぼられるわけだ。「釈名」が編纂された時代は、三世紀の中ごろ。すし文化が日本列島に渡来した時代をずばり指摘すれば、その時代は、三世紀後半から、せいぜい四世紀の初期と考えて良いだろう。

私のいう「すし人」を第二波の弥生人と考えてみても良い。ともあれ、すしから見れば弥生人は、少なくとも二派に分かれて日本列島にに訪れている。

三世紀後半から四世紀にかけてと言えば、日本列島はちょうど、古墳時代の曙を迎えたころ。ここで私は、いささか飛躍した推理を試みたい。古墳時代は「すし人」が開拓したのではないかと。それが事実ならば、すし党にとって、こんなうれしい話はない。(すし風土記B 近藤弘著)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

カマス、甘鯛、真鯛、春日子鯛、金目鯛、ヤガラ、カツオ(勝浦産)、サヨリ、アジ、イワシ、サバ、コハダ、サワラ(金谷)、タチウオ、アマダイ、ホウボウ、クロムツ、ヒラメ、地たこ、アオリイカ、ヤリイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、アサリ、赤貝、自家製玉子焼き(有精卵使用)、ウニ、イクラ醤油漬け、他

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(鯛寿し)

皆様のご来店をお待ち申し上げます。

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posted by らかん at 09:32| Comment(0) | 寿司の歴史と雑学

2016年02月20日

ミサゴずしの伝承(2)

鋸南町の気温は4℃ 晴れ 夕方から雨の予報です。
2016年2月20日(土曜日)
旧暦:2016年1月13日 先勝

早咲きの頼朝桜『竹灯篭まつり』開催中です!

本日は、「篠田統著 すしの本」より「ミサゴずしの伝承」の続きです。

古代日本のすし
ミサゴずしの伝承(2)

だいたい、魚のようなたんぱく質を塩と一緒に漬けて置いたら、よほど油の濃いものでない限り、自家消化でアミノ酸が遊離してきて塩辛にこそなれ、酸しと言われるほど有機酸が生成するはずはなく、魚油が分解したなら一応酸味はできようが、舌をさすような味で食用にはなりそうにもない。どうも、ミサゴずしの話は都人の几の上での創作のように思える。

「蛸竹」の阿部老人は別の伝承を話された。淡路に老夫婦がいて、いつも自分たちの残飯をミサゴにほどこしていた。この残飯とミサゴが取ってきた魚と、海の塩水とですしができたのだという。これなら理屈は一応は通る。しかし、バリバリの肉食鳥なるミサゴに海岸住まいの人間が米の飯をやるなんて、そもそもからおかしい。飯がはいらぬと酸くならないことに気が付いた誰かが旧来の伝承の「合理化」を試みたのではあるまいか。

いずれにせよ、こんな話をいくらほじくり回してもキリが無い。ただのお話として片付けて置く方がよさそうだ。私自身、日本のすしは悠久の昔に大陸からイネが渡来したとき、それと一緒に伝わった魚類加工法の一つだと考える。

元来は山奥のもので、川魚を材料にしていた事は今までに述べてきた。【延喜式】にきめられたすしを貢納する国々を地図でみると、北九州に始まって順次東方へと、イネの伝播経路に沿い、アユが産出するほどの大きな川のあるところに沿っている事がわかる。それが、馴れずしから生成や早ずしが生まれてくると、日本人の魚好きと相まって真新しい海魚のすしも漬けられ、ついには生魚そのものが握られるようになったものだろう。

大宝2年(702年)施行の大宝令は今日全文は伝わらないが、その第一次改訂なる『養老令』が残っているし、『令義解』、『令集解』などの令文の注釈書などによっても原型をだいたい復元できる。その中の【賦役令】の中に、若し雑物を輪するならば・・・鰒鮓二斗、貽貝鮓三斗・・・雑鮓五斗近江鮒五斗・・・の文がある。義解には注を施し「鮨は鮓のことなり」といっているが、令のころはすしには正字である鮓の字のほうが多く用いられていた。とまれ、記、紀、万葉にはすしの記事が見えないから、この一条はわが国のすしに関するいちばん古い文献だといえよう。

イガイやアワビは分かるが、雑鮨とは何だろう。正倉院文書の一つである「但馬国正税帳」(739)によると、難波宮造営の為はるばる但馬国から駆り出された人夫たちの食糧として「雑鮨五斛」が与えられている。どうも川雑魚のすしらしい。(続)
(すしの本、篠田統著より)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

砂フグ、ヒラメ、サワラ、甘鯛、真鯛、又木産の金目鯛、シロメ昆布〆、春子鯛、タチウオ、サヨリ、アジ、いわし、サバ、カンパチ、コハダ、地たこ、いか、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、アサリ、アワビ、赤貝、自家製玉子焼き(有精卵使用)、初カツオ、クロマグロ、ウニ、イクラ醤油漬け、他

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(地元産たこ寿し、塩で供します。甘みが増して美味)

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posted by らかん at 08:57| Comment(0) | 寿司の歴史と雑学