2018年07月17日

きょなんの海と文豪(漱石、八十の夏の思い出)

鋸南町の気温は26℃ 晴れ

プールで遊ぶ子供が増え、海で泳ぐ子供達も少なくなりましたが、かっての保田は夏になると多くの避暑客で賑わっていたものです。そしてここ鋸南町保田は房州海水浴発祥の地でもあります。いよいよ今年も、海水浴場のオープンが近づいてまいりました。鋸南町の海水浴場を開設期間は、勝山・保田海水浴場;7月21日(土)〜8月12日(日)、大六・鱚ヶ浦・元名海水浴場; 7月28日(土)〜8月12日(日)となっております。

umi01.jpg
(波が穏やかな海)

保田は明治以降、多くの避暑客でにぎわう避暑地として人気がありました。多くの文人墨客も訪れ、作品の中の舞台として登場させています。夏目漱石は、明治 22 年(1889)8 月、22 歳の時、第一高等中学の学友 4 人と房州を訪れています。汽船で保田に着いたのが 8 月 7 日。保田での滞在は約十日間で、昼は海水浴や鋸山散策。夜は酒盛りに囲碁、カルタと学生時代の夏休みを大いに楽しんだようです。旅から帰ると、漱石はこの旅の紀行漢詩文集「木屑録(ぼくせつろく)」を書き上げました。

souseki.jpg
(夏目漱石)

これによると、日焼けでしだいに真っ黒になっていく自分を鏡で見て驚く漱石が書かれています。
また、若さゆえの今の自分に苦悩し寝付けぬ夜もあったようです。この房州旅行は、後の文豪、漱石の文学的資質を作る一つの転機となったと言われます。小説「こころ」には保田が舞台となる場面もあります。それによると、保田はどこもかしこも生臭いとか、海に入れば大きな石がごろごろしていると、あまりいい印象ではないようです。しかし、鋸山の景観には深く感じ入ったようです。この漱石の海水浴を記念し、保田海岸には房州海水浴発祥地の石碑が建てられました。

hotaumi002.jpg
(房州海水浴発祥地の石碑)

詩人、西条八十(さいじょうやそ)も保田を愛した一人です。早稲田中学時代から保田にたびたび避暑に訪れていた八十は、保田海岸でその幻想的な詩風を培いました。今なお歌い継がれている童謡「かなりや」は、保田で創作されたもので、大正 7 年(1918)に児童雑誌「赤い鳥」に発表され、26歳の新人無名の八十が世に出るきっかけとなった名作です。保田で出会った一人の少女がモデルとも言われ、八十の淡い初恋があった保田海岸です。少女の名前はお幸ちゃん。(※駅前商店街にある、らかん寿し松月の前にかづま旅館があり、そこの娘さんでした。当時10歳ころ)当時は一緒に海水浴をしましたが、のちに彼女は家庭の事情で保田を離れました。その後再開した二人は晩年まで交流が続きました。

yaso.jpg
(西条八十)

---金絲雀(かなりや) 西条八十---
唄を忘れた金絲雀(かなりや)は うしろの山に棄てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は 背戸の小藪に埋めましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は 柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいそう。

唄を忘れた金絲雀は 象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮べれば 忘れた歌を想ひだす。

kazuma.jpg
(当時の面影が残る、かずま旅館)

保田海岸は、古くから富士の見える絶景ポイントで、房総を旅した歌川広重は、「富士三十六景」シリーズで、ここからの富士の眺めを浮世絵版画にしています。

201-2548 (1).jpg
(鋸南町歴史・文化案内書)
789.jpg
(遠くに富士山が見える)

漱石や八十が訪れた当時、鉄道はまだ開通しておらず、東京からの足には、もっぱら汽船が使われた。※東京霊岸島から保田まで船便で5時間近くかかったそうである。

※霊岸島(東京都中央区東部,隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川1,2丁目にあたる。)
地名は寛永1 (1624) 年霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来 (寺は明暦の大火後,深川に移転) し,霊巌島とも書いた。

鉄道が開通すると、次第に海水浴客も増えていった。

その頃、石原純と原阿佐緒のスキャンダラスなロマンで、保田は一層有名になった。石原純は、東北大の物理学の教授でアララギ創刊以来の歌人でもあった。原は同じアララギ派の女流歌人。二人はいつしか恋仲になった。石原には大学があり妻子もあった。原には二人の子供があったが、二人は過去の一切を捨て、保田へと移り住んだ。この痴話が新聞に大々的に報じられたと言う。洋風二階建ての建物が保田小の裏にでき、【曖日荘】と名づけられた。

0006.jpg
(石原純と原阿佐緒)

※石原純は、1881年1月15日東京府、日本基督教会本郷教会牧師石原量の長男として生まれる。郁文館中学、一高を経て、1906年7月 東京帝国大学理科大学卒業。長岡半太郎に学ぶ。東北帝国大学助教授時代にヨーロッパに留学し、アインシュタインらのもとで学ぶ。1922年には、アインシュタインの来日講演の通訳をした。日本に相対性理論を紹介するなど、物理学の啓蒙に大きな役割を果たした。1931年から雑誌『科学』(岩波書店)の初代編集主任を務めた。

※原阿佐緒は、1888年(明治21年)6月1日、宮城県黒川郡宮床村(現在の同県同郡大和町大字宮床)に生まれる。宮城県立高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)を中途退学し、上京して日本女子美術学校(現在の東京都立忍岡高等学校)で日本画を学び、1909年(明治40年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

サワラ、サヨリ、シンコ、マゴチ、イナダ、イサキ、カマス、タチウオ、キス、カツオ、トコブシ、春子鯛、アオヤギ、花鯛、真鯛、金目鯛、煮アナゴ、カレイ、ヒラメ、アワビ、サザエ、アジ、生サバ、シメサバ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、ウニ(北海道、竹岡)、自家製玉子焼き、他
(魚介は全て天然物です)

1496827787589_470.jpg

皆様のご来店をお待ち申し上げます

※休業日:毎週木曜日
※休祝日・連休はご予約の方を優先させていただきます。
※午後7時以降のご来店はご予約をお願いします。
※6名様以上は必ずご予約をお願いします。
らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
TEL:0470(55)1004
Facebookもよろしくお願いします。

タグ:夏目漱石
posted by らかん at 08:30| Comment(0) | 保田の歴史、文化

2018年03月25日

見返り美人画の菱川師宣誕生地は保田です。

鋸南町の気温は13℃ 晴れ

浮世絵師の菱川師宣は、本名は吉兵衛(きちべえ)といい、江戸時代初期の寛永中頃(1630 年頃)保田に生まれました。

鴨川市出身の彫刻家・長谷川昂氏の制作によるブロンズ像です。菱川師宣記念館前に建っています。

hisi007.jpg
(見返り美人ブロンズ像)

千葉県指定史跡になっている菱川師宣の生家跡は国道127号線沿いにありますが、場所を確認してから訪ねたほうが良いです。右隣の建物は色々と名前が変わっています。今は保田食堂ですが、私の記憶では、あさや旅館、黒潮旅館、萬寿山、保田食堂と変遷しています。

p411-022.jpg
((指定日)昭和33年4月23日、所在地(所有者)安房郡鋸南町保田182(鋸南町))

hisi009.jpg
(菱川師宣誕生地の碑)

菱川師宣の生家跡で、千葉県指定史跡です。菱川師宣は、本名は吉兵衛(きちべえ)といい、江戸時代初期の寛永中頃(1630 年頃)保田に生まれました。生年は今だ確認されていません。父、菱川吉左衛門は、布地に刺繍(ししゅう)や金銀箔(きんぎんぱく)をほどこす縫箔師(ぬいはくし)。京都移住者と伝わる吉左衛門と、地元保田の岩崎家の娘、おたまが結婚し、生まれた師宣は、7人兄弟の3番目で、長男でした。

幼い頃から家業を手伝い、絵の才能を目覚めさせ、後に江戸に出て、当時、浮世(うきよ)と呼ばれた江戸のちまたの庶民風俗を描き、また独自の発想と絵画様式で、「浮世絵」というそれまでにない絵画ジャンルを切り開きました。師宣が描いた様々な絵本の中には、彼の経歴を紹介した序文などが記されているものもあります。

「大和武者絵」の序文には、「爰(ここ)に房州の海辺、菱川氏という絵師、船のたよりをもとめてむさしの御城下にちっきょして、自然と絵をすきて、青柿(あおがき)のへたより心をよせ、和国絵の風俗、三家の手跡(しゅせき)を筆の海にうつして、これにもとづいて自ら工夫して、後この道一流をじゅくして、浮世絵師の名をとれり」とあり、幼い頃から絵が好きで、独学で自分の流派を築いていったことがわかります。

もっとも知られた肉筆美人画「見返り美人図」は、当時の江戸の女性の最新のファッションや髪形
を取り入れ、ふと振り返った流れるような体の線で女性らしさや、粋(いき)な元禄文化の華やかさを演出しています。落款は「房陽菱川友竹筆」。友竹(ゆうちく)は最晩年の号。故郷房州保田を愛した師宣の名作です。

hisi005.jpg

保田に生まれた菱川師宣は、浮世絵の創始者として江戸で名をはせました。しかし、少年時代を過ごした保田には、特別な思い入れがあったようです。肉筆画の落款(らっかん)には「房陽(ぼうよう)」「房国(ぼうこく)」と肩書きし、房州生まれの絵師であることを誇りとし、また長男には房州の房をとって師房(もろふさ)と名づけています。別願院(べつがんいん)は、通称は浜の寺と言い、菱川家の菩提寺(墓寺)でした。

001hisi.jpg
(別願院・師宣の墓)

別願院梵鐘.jpg
(別願院梵鐘・師宣寄進)

元禄7年(1694)6 月 4 日、江戸で亡くなった師宣は、浅草の誓願寺(せいがんじ)の支院徳寿院(とくじゅいん)で葬儀が行われましたが、そこには墓はありません。故郷の別願院に墓が建てられたと推測されます。しかし、師宣の死後、元禄 16年に起こった元禄の大地震と大津波で房総沿岸は打撃を受け、別願院も流失、墓石も海中に没したと思われます。現在の墓は、後に再建されたもので、昭和 2 年に浮世絵研究家の東京の井上書店主らによって建てられたものと、氏によって建てられたものです。戒名は「勝誉即友居士(しょうよそくゆうこじ)」。師宣は亡くなる一ヶ月前、別願院に、梵鐘(ぼんしょう)を寄進しています。家系図も刻まれたこの梵鐘は太平洋戦争中、金属回収令により供出され、今はありません。復元されたものが菱川師宣記念館前にあります。
(鋸南町歴史・文化案内書より、画像はここから)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

カツオ、アワビ、アジ、ヒラメ、ギラ、クロムツ、メジマグロ、真鯛、花鯛、甘鯛、金目鯛、キス、サワラ、イワシ、サバ、コハダ、サザエ、、地たこ、ヤリイカ、煮アナゴ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、イクラ他

anagosusi1121.jpg
(アナゴ寿司)
皆様のご来店をお待ち申し上げます

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
TEL:0470(55)1004
Facebookもよろしくお願いします。
posted by らかん at 09:47| Comment(2) | 保田の歴史、文化