2023年09月01日

安房勝山自然公園と平田未喜三氏

鋸南町の気温は29℃

海水浴シーズンも終わりましたが、まだまだ暑い日が続きます。
充分な水分補給を忘れずに過ごしてください。

クロムツ

クロムツ(金谷産)に、さらに脂がのって旨味が増しています。

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(クロムツ寿し、脂がのっています)



過去、勝山に遊園地やヘルスセンターがあったとのこと。そこで、ネット検索ですが調べてみたら、本当にありました。随分と当時は賑わったようで、改めて60歳以上の方に話を聞いてみると、皆さん夏には遊びに行ったと懐かしがって話されていました。

『鋸南町史 改訂 通史編』(鋸南町教育委員会1995)p1108に「新しい観光への展望 勝山遊園地」という項目があり、以下のようなことがわかりました。
勝山の観光事業に敏腕を振るった平田未喜三氏は、昭和25-29年の勝山町観光協会会長時代に大黒山のふもとにさまざまな遊具施設を設置した勝山遊園地を建設した。また、大黒山の岩肌を利用した水族館を造り定置網にかかった珍しい魚を観賞用として飼育すると共に、サルや孔雀などの動物も観光用として飼育していた。

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(故平田未喜三氏、1953年の映画、蟹工船で浅川監督役を演じた。)

昭和28年3月東海汽船(株)が、町内の観光資源の豊かさに着目し、平田朗・未喜三と共同経営により、ヘルスセンター、頼朝荘(宿泊施設)が建設され房州地方の一大遊園地に発展した。一方、大黒山に登る施設も完備していた。

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(今の大黒山)

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(大黒山入口に作られた竜宮城水族館跡の看板)

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(自然洞窟に造られた水族館)

『千葉新聞』(1953(昭和28)年3月9日)に、勝山町の収入役が同町大黒山(勝山海浜公園)その他国有地の払い下げの契約のために東京営林局に出向いたという記事がありました。
また、千葉県内の木更津市立図書館へ照会し、所蔵資料『東海汽船80年のあゆみ』(東海汽船 1970)の年表を確認してもらったところ、昭和28年3月から勝山で遊園地、水族館、ヘルスセンター、頼朝荘の経営との記述があるとのことでした。

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(勝山龍宮城水族館)
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(竜宮城水族館、大勢の人で賑わっています)
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(昭和30年代、勝山町の観光パンフレット)
 
記事、写真を以下よりお借りしました。
レファレンス協同データベース
昭和な安房勝山にタイムスリップ 
安房勝山竜宮城水族館と勝山遊園地 
昭和な安房勝山自然公園
昭和な安房勝山自然公園その2

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

アカムツ、シンコ、アジ、赤貝、アオリイカ、イワシ、コハダ、キス昆布締め、クロムツ、サザエ、シマアジ、タコ、タチウオ、トコブシ、トラフグ白子、ハマグリ、花鯛、真鯛、煮アナゴ、生サバ、海胆、自家製玉子焼き、他
(魚介は全て天然物です)

皆様のご来店をお待ち申し上げます

※営業時間:午前11時半〜午後8時(午後6時以降は要予約)
定休日:毎週木曜日
※休祝日・連休・お盆期間中はご予約の方を優先させていただきます。

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
TEL:07042330463
Facebookもよろしくお願いします
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2023年08月27日

キャンプストアー(明治大学広告研究部)

鋸南町の気温は29℃ 晴れ

日中の暑さは異常ですが、やっと朝晩には涼しさを感じるようになってきました。
夏休みも終盤です。海は静かさを取り戻しつつあります。

今年も、明治のOBがご来店くださいました。有難うございます。

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大正から昭和にかけて、保田に訪れる避暑客の殆どは、保田の住民の貸間を借り切って一家揃ってやって来ました。女中さんを連れて、一月近く滞在する人も珍しくなかったそうです。台所を借りて自分たちで食事の仕度をする人もいました。毎年のことなのでお互いに親戚づきあいのようなもので、子供達も一緒になって遊んだといいます。「房州の言葉で話すと、東京から来た子供達には通じないので、自然に向こうの言葉になっちゃうんですね。」ということで、保田の人は言葉がきれいだと言われました。

そして、昭和5年には明治製菓が、昭和9年には森永製菓が直営のキャンプストアーを出店すると保田の夏も一層賑やかなものとなりました。

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とにかく、この夏のキャンプストアーは立派な建物で、大きな舞台もセットされ、400人近くの人が入場できたといいます。映画が上映されたり、有名俳優が出演したり、毎日様々な催し物が行われた。明治製菓と森永製菓が互いにライバル意識を燃やして火花を飛び散らしていたそうです。
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保田のにぎわいは戦時中を抜かし戦後も続きましたが、今はひと頃の花々しさは無くなり寂しい限りです。無その昔「駅前通りは夜になると人で一杯でね。」とも言われ、「下駄のカラコロという音がうるさくて、電話の音もろくに聞こえなかった。」という人もいて、それほど賑やかだったようです。

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本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

メジマグロ、ヒラメ、シマアジ、シンコ、サワラ、タチウオ、トコブシ、花鯛、真鯛、金目鯛、煮アナゴ、サザエ、アジ、生サバ、シメサバ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、ウニ、自家製玉子焼き、他
(魚介は全て天然物です)

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ハナダイがとても美味しくなっています。

皆様のご来店をお待ち申し上げます

※休業日:毎週木曜日
※休祝日・連休・お盆期間中はご予約の方を優先させていただきます。
※午後7時以降のご来店はご予約をお願いします。
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ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
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2022年11月21日

石原純と原阿佐緒の保田への逃避行

かって保田には多くの文人がいました。
東北大学物理学教授の石原純と女流歌人の原阿佐緒も保田に在住していました。

アララギ派の歌人で、アインシュタインの相対性理論の日本への紹介者として知られた東北大学物理学教授・石原純は、女流歌人の原阿佐緒と恋に落ち、その地位も妻子も投げうって、大正10年(1921)保田に逃避行してきました。このスキャンダルは、当時一大センセーションを巻き起こしました。

松音楼(昭和に、線路脇にありました)に投宿した二人は、やがて保田小学校裏山に、洋館の新居を建て、そこに移り住みました。家はその頃出た純の詩集からとって、「靉日(あいじつ)荘」=「阿佐緒は紫花山房と呼んでいた」と呼ばれました。まるでオシドリのように仲むつまじく、地元の人たちへの短歌会を開いたりして、保田には多くの文化人が集まるようにもなりました。

しかし昭和3年、二人の愛は破局を迎え、7年間過ごした靉日荘から阿佐緒は去りました。
純は昭和22年、交通事故がもとで、靉日荘で亡くなりました。靉日荘は昭和44年に取り壊されています
(鋸南町歴史・文化案内書)

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(石原純と原阿佐緒)

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(保田小学校裏山にあった靉日荘)

--暖国(石原純)--

ほかほかとけふは暖かい
暖国の空のいろの
明るくふかいなかを
ゆたかな心で 私たちは歩いた
菜の花がもうすっかり黄色い
浜辺の静かな町の
砂ぶかいさくさくした路を
私たちは連れだってゆく
垣根に椿の花があかい

原阿佐緒記念館
「恋愛事件」 石原純
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原阿佐緒が「恋多き女」のイメージを強く持たれるのは、この石原純との「恋愛事件」があったためだろう。
阿佐緒と石原純の出会いは、大正六年に阿佐緒が東北帝国大学病院に入院した時であった。石原は東北帝国大学で教鞭をとる物理学者であると同時に、歌人であった。石原は学生時代に正岡子規の「歌よみに与ふる書」に影響を受け、伊藤左千夫を訪ね「馬酔木」に参加、「馬酔木」廃刊後は「アララギ」創刊時より参加し同人の一人として活動した。いわば「アララギ」の重鎮であり、仙台での「アララギ」の活動の中心人物であった。

阿佐緒も大正二年より「アララギ」に入社し、多数の短歌を誌上に発表していたことから、同結社で活動する歌人同士として石原は阿佐緒を見舞ったのである。このことを切欠に、阿佐緒は石原の家で行われた歌会へ足を運ぶようになった。また手紙のやり取りも始まり、大正八年に長男千秋の進学のために仙台へ居を移すと石原はしばしばそこを訪れたりもした。しかし阿佐緒にとっての石原はあくまで短歌の尊敬すべき先輩であり、恋愛の対象ではなかったのである。

いつしか石原の気持ちは歌人同士の繋がりの域を越え、それを率直に阿佐緒に伝えるまでに至っていた。しかし、阿佐緒はその求愛を受け入れようとはしなかった。一説には阿佐緒には別に愛する男性がいたからだとも言われている。また、当時石原には妻と子ども達がいた、と言うこともあったであろう。過去においての過ちを再び繰返したくないとの気持ちもあったかもしれない。阿佐緒は石原の求愛を避けるために仙台から宮床へと帰った。しかし石原はその宮床へも足を運ぶようになったのであった。阿佐緒は再び石原から逃れるため旅立った。行先は東京、親友の歌人、三ヶ島葭子を頼っての上京であった。葭子の家に寄宿し、しばし穏やかな生活を送っていた阿佐緒であったが、そこに講演のため上京した石原が訪れた。石原は三ヶ島葭子夫妻を説得し、阿佐緒に自分の求愛に答えるように働きかけたのである。この執拗なアピールに遂に阿佐緒は石原の愛を受け入れるに至った。

しかし、この二人の関係はすぐにアララギの関係者たちの知る所となった。島木赤彦、斉藤茂吉らが石原と阿佐緒のもとを訪れ、二人の関係を清算するよう説得を行った。大学教授であり、アララギの中心メンバーである石原が、妻子をも捨てて阿佐緒のもとへ走ったことは道義的に、また「アララギの歌人」としても許されるものではなかったのである。だが石原はこれを全く受け入れなかった。結果、阿佐緒はアララギを破門され、石原もアララギを離れざるを得なくなったのであった。

大正十年七月末、新聞各紙は一斉に阿佐緒と石原純について報じた。
「高名の物理学者情熱の歌人と恋の噂」
「歌人原阿佐緒との恋愛で東北大教授を辞職」(東京朝日新聞)
「女歌人との関係から石原博士遂に辞職」(読売新聞)
「物理学会の権威石原博士辞職 『新しい女』に禍して」(日刊山形)
「病気に堪へずとて辞表を提出した石原博士 原阿佐緒女子との経緯が直接原因」(河北新報)

記事の内容は、石原が東北帝国大学の学長に辞表を提出したこと、そしてその原因が原阿佐緒にあるとするものだった。阿佐緒は石原を誘惑した「悪魔」であり、異性を誘惑せずにいられない気質であると報じたのだ。
阿佐緒にとって思いもかけない報道であった。社会的地位のある男性を誘惑した悪女として一方的に糾弾されたのである。阿佐緒は事の顛末を、親友三ヶ島葭子は阿佐緒を擁護する文章を雑誌上に発表するが、それは報われることはなかった。

大正十一年、石原と阿佐緒は千葉県保田に「靉日荘」と呼ばれる洋館を建築、移り住んだ。海辺のこの洋館で石原は執筆に、阿佐緒は歌作や絵画の制作に励み、また三ヶ島葭子や古泉千樫、結城哀草花らの歌人が集い、仲睦まじい満ち足りた暮らしがあったかに見えた。しかし、阿佐緒にとっては必ずしもそうではなかったのだ。石原は阿佐緒に金銭の自由を許さなかったと言われている。年老いた母や子ども達に会うために故郷に帰ることも、親友三ヶ島葭子の葬儀に駆けつけることも許さなかった。また石原は別の女性に目を向け始めていた。この生活に耐えられず、阿佐緒は一人靉日荘を飛び出し、故郷へ向ったのだった。昭和三年のことだった。

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展示物写真原阿佐緒と石原純連盟の手紙
posted by らかん at 09:47| Comment(0) | 保田の歴史、文化