2018年03月25日

見返り美人画の菱川師宣誕生地は保田です。

鋸南町の気温は13℃ 晴れ

浮世絵師の菱川師宣は、本名は吉兵衛(きちべえ)といい、江戸時代初期の寛永中頃(1630 年頃)保田に生まれました。

鴨川市出身の彫刻家・長谷川昂氏の制作によるブロンズ像です。菱川師宣記念館前に建っています。

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(見返り美人ブロンズ像)

千葉県指定史跡になっている菱川師宣の生家跡は国道127号線沿いにありますが、場所を確認してから訪ねたほうが良いです。右隣の建物は色々と名前が変わっています。今は保田食堂ですが、私の記憶では、あさや旅館、黒潮旅館、萬寿山、保田食堂と変遷しています。

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((指定日)昭和33年4月23日、所在地(所有者)安房郡鋸南町保田182(鋸南町))

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(菱川師宣誕生地の碑)

菱川師宣の生家跡で、千葉県指定史跡です。菱川師宣は、本名は吉兵衛(きちべえ)といい、江戸時代初期の寛永中頃(1630 年頃)保田に生まれました。生年は今だ確認されていません。父、菱川吉左衛門は、布地に刺繍(ししゅう)や金銀箔(きんぎんぱく)をほどこす縫箔師(ぬいはくし)。京都移住者と伝わる吉左衛門と、地元保田の岩崎家の娘、おたまが結婚し、生まれた師宣は、7人兄弟の3番目で、長男でした。

幼い頃から家業を手伝い、絵の才能を目覚めさせ、後に江戸に出て、当時、浮世(うきよ)と呼ばれた江戸のちまたの庶民風俗を描き、また独自の発想と絵画様式で、「浮世絵」というそれまでにない絵画ジャンルを切り開きました。師宣が描いた様々な絵本の中には、彼の経歴を紹介した序文などが記されているものもあります。

「大和武者絵」の序文には、「爰(ここ)に房州の海辺、菱川氏という絵師、船のたよりをもとめてむさしの御城下にちっきょして、自然と絵をすきて、青柿(あおがき)のへたより心をよせ、和国絵の風俗、三家の手跡(しゅせき)を筆の海にうつして、これにもとづいて自ら工夫して、後この道一流をじゅくして、浮世絵師の名をとれり」とあり、幼い頃から絵が好きで、独学で自分の流派を築いていったことがわかります。

もっとも知られた肉筆美人画「見返り美人図」は、当時の江戸の女性の最新のファッションや髪形
を取り入れ、ふと振り返った流れるような体の線で女性らしさや、粋(いき)な元禄文化の華やかさを演出しています。落款は「房陽菱川友竹筆」。友竹(ゆうちく)は最晩年の号。故郷房州保田を愛した師宣の名作です。

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保田に生まれた菱川師宣は、浮世絵の創始者として江戸で名をはせました。しかし、少年時代を過ごした保田には、特別な思い入れがあったようです。肉筆画の落款(らっかん)には「房陽(ぼうよう)」「房国(ぼうこく)」と肩書きし、房州生まれの絵師であることを誇りとし、また長男には房州の房をとって師房(もろふさ)と名づけています。別願院(べつがんいん)は、通称は浜の寺と言い、菱川家の菩提寺(墓寺)でした。

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(別願院・師宣の墓)

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(別願院梵鐘・師宣寄進)

元禄7年(1694)6 月 4 日、江戸で亡くなった師宣は、浅草の誓願寺(せいがんじ)の支院徳寿院(とくじゅいん)で葬儀が行われましたが、そこには墓はありません。故郷の別願院に墓が建てられたと推測されます。しかし、師宣の死後、元禄 16年に起こった元禄の大地震と大津波で房総沿岸は打撃を受け、別願院も流失、墓石も海中に没したと思われます。現在の墓は、後に再建されたもので、昭和 2 年に浮世絵研究家の東京の井上書店主らによって建てられたものと、氏によって建てられたものです。戒名は「勝誉即友居士(しょうよそくゆうこじ)」。師宣は亡くなる一ヶ月前、別願院に、梵鐘(ぼんしょう)を寄進しています。家系図も刻まれたこの梵鐘は太平洋戦争中、金属回収令により供出され、今はありません。復元されたものが菱川師宣記念館前にあります。
(鋸南町歴史・文化案内書より、画像はここから)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

カツオ、アワビ、アジ、ヒラメ、ギラ、クロムツ、メジマグロ、真鯛、花鯛、甘鯛、金目鯛、キス、サワラ、イワシ、サバ、コハダ、サザエ、、地たこ、ヤリイカ、煮アナゴ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、イクラ他

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(アナゴ寿司)
皆様のご来店をお待ち申し上げます

らかん寿し松月HP
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お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。(メールでの返事は時間が掛かります。ご了承ください)
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posted by らかん at 09:47| Comment(2) | 保田の歴史、文化

2017年09月25日

石原純と原阿佐緒の保田への逃避行

かって保田には多くの文人がいました。
東北大学物理学教授の石原純と女流歌人の原阿佐緒も保田に在住していました。

アララギ派の歌人で、アインシュタインの相対性理論の日本への紹介者として知られた東北大学物理学教授・石原純は、女流歌人の原阿佐緒と恋に落ち、その地位も妻子も投げうって、大正10年(1921)保田に逃避行してきました。このスキャンダルは、当時一大センセーションを巻き起こしました。

松音楼(昭和に、線路脇にありました)に投宿した二人は、やがて保田小学校裏山に、洋館の新居を建て、そこに移り住みました。家はその頃出た純の詩集からとって、「靉日(あいじつ)荘」=「阿佐緒は紫花山房と呼んでいた」と呼ばれました。まるでオシドリのように仲むつまじく、地元の人たちへの短歌会を開いたりして、保田には多くの文化人が集まるようにもなりました。

しかし昭和3年、二人の愛は破局を迎え、7年間過ごした靉日荘から阿佐緒は去りました。
純は昭和22年、交通事故がもとで、靉日荘で亡くなりました。靉日荘は昭和44年に取り壊されています
(鋸南町歴史・文化案内書)

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(石原純と原阿佐緒)

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(保田小学校裏山にあった靉日荘)

--暖国(石原純)--

ほかほかとけふは暖かい
暖国の空のいろの
明るくふかいなかを
ゆたかな心で 私たちは歩いた
菜の花がもうすっかり黄色い
浜辺の静かな町の
砂ぶかいさくさくした路を
私たちは連れだってゆく
垣根に椿の花があかい

原阿佐緒記念館
「恋愛事件」 石原純
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原阿佐緒が「恋多き女」のイメージを強く持たれるのは、この石原純との「恋愛事件」があったためだろう。
阿佐緒と石原純の出会いは、大正六年に阿佐緒が東北帝国大学病院に入院した時であった。石原は東北帝国大学で教鞭をとる物理学者であると同時に、歌人であった。石原は学生時代に正岡子規の「歌よみに与ふる書」に影響を受け、伊藤左千夫を訪ね「馬酔木」に参加、「馬酔木」廃刊後は「アララギ」創刊時より参加し同人の一人として活動した。いわば「アララギ」の重鎮であり、仙台での「アララギ」の活動の中心人物であった。

阿佐緒も大正二年より「アララギ」に入社し、多数の短歌を誌上に発表していたことから、同結社で活動する歌人同士として石原は阿佐緒を見舞ったのである。このことを切欠に、阿佐緒は石原の家で行われた歌会へ足を運ぶようになった。また手紙のやり取りも始まり、大正八年に長男千秋の進学のために仙台へ居を移すと石原はしばしばそこを訪れたりもした。しかし阿佐緒にとっての石原はあくまで短歌の尊敬すべき先輩であり、恋愛の対象ではなかったのである。

いつしか石原の気持ちは歌人同士の繋がりの域を越え、それを率直に阿佐緒に伝えるまでに至っていた。しかし、阿佐緒はその求愛を受け入れようとはしなかった。一説には阿佐緒には別に愛する男性がいたからだとも言われている。また、当時石原には妻と子ども達がいた、と言うこともあったであろう。過去においての過ちを再び繰返したくないとの気持ちもあったかもしれない。阿佐緒は石原の求愛を避けるために仙台から宮床へと帰った。しかし石原はその宮床へも足を運ぶようになったのであった。阿佐緒は再び石原から逃れるため旅立った。行先は東京、親友の歌人、三ヶ島葭子を頼っての上京であった。葭子の家に寄宿し、しばし穏やかな生活を送っていた阿佐緒であったが、そこに講演のため上京した石原が訪れた。石原は三ヶ島葭子夫妻を説得し、阿佐緒に自分の求愛に答えるように働きかけたのである。この執拗なアピールに遂に阿佐緒は石原の愛を受け入れるに至った。

しかし、この二人の関係はすぐにアララギの関係者たちの知る所となった。島木赤彦、斉藤茂吉らが石原と阿佐緒のもとを訪れ、二人の関係を清算するよう説得を行った。大学教授であり、アララギの中心メンバーである石原が、妻子をも捨てて阿佐緒のもとへ走ったことは道義的に、また「アララギの歌人」としても許されるものではなかったのである。だが石原はこれを全く受け入れなかった。結果、阿佐緒はアララギを破門され、石原もアララギを離れざるを得なくなったのであった。

大正十年七月末、新聞各紙は一斉に阿佐緒と石原純について報じた。
「高名の物理学者情熱の歌人と恋の噂」
「歌人原阿佐緒との恋愛で東北大教授を辞職」(東京朝日新聞)
「女歌人との関係から石原博士遂に辞職」(読売新聞)
「物理学会の権威石原博士辞職 『新しい女』に禍して」(日刊山形)
「病気に堪へずとて辞表を提出した石原博士 原阿佐緒女子との経緯が直接原因」(河北新報)

記事の内容は、石原が東北帝国大学の学長に辞表を提出したこと、そしてその原因が原阿佐緒にあるとするものだった。阿佐緒は石原を誘惑した「悪魔」であり、異性を誘惑せずにいられない気質であると報じたのだ。
阿佐緒にとって思いもかけない報道であった。社会的地位のある男性を誘惑した悪女として一方的に糾弾されたのである。阿佐緒は事の顛末を、親友三ヶ島葭子は阿佐緒を擁護する文章を雑誌上に発表するが、それは報われることはなかった。

大正十一年、石原と阿佐緒は千葉県保田に「靉日荘」と呼ばれる洋館を建築、移り住んだ。海辺のこの洋館で石原は執筆に、阿佐緒は歌作や絵画の制作に励み、また三ヶ島葭子や古泉千樫、結城哀草花らの歌人が集い、仲睦まじい満ち足りた暮らしがあったかに見えた。しかし、阿佐緒にとっては必ずしもそうではなかったのだ。石原は阿佐緒に金銭の自由を許さなかったと言われている。年老いた母や子ども達に会うために故郷に帰ることも、親友三ヶ島葭子の葬儀に駆けつけることも許さなかった。また石原は別の女性に目を向け始めていた。この生活に耐えられず、阿佐緒は一人靉日荘を飛び出し、故郷へ向ったのだった。昭和三年のことだった。

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展示物写真原阿佐緒と石原純連盟の手紙
posted by らかん at 19:57| Comment(0) | 保田の歴史、文化

2017年08月21日

大正6年の両国駅-保田間の鉄道乗車代は1円4銭でした。 

鋸南町の気温は27℃ 晴れ

保田の海水浴シーズンも静かなまま去っていきました。昭和頃、夏季には海水浴客の為の臨時列車が多数走り、ダイヤも単なる増発ではなく夏ダイヤとして大幅に書き換えられていた時期がありましたが、今は減るばかりです。

保田に鉄道が開通したのは遅く、大正元年に木更津、大正5年には浜金谷。そして大正6年8月1日に保田、勝山の両駅が同時に開通しました。館山駅まで開通したのは2年後の大正8年です。当時の運賃は、両国駅--保田間が1円4銭。一日平均乗車人員は321人。昭和53年は運賃1000円、乗車人員は1,065人でした。

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(画像はここから借りました)

内房線は昭和44年7月には千倉まで電化されて、昭和43年のディーゼル急行「うち房」が最後の夏の運行でした。

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当時、千葉方面への列車は両国駅を起点としていました。

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昭和53年当時の保田駅長、宍戸才治さ(ん昭和16年鉄道省入社)
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当時職人さんが2円位の時代、確か初任給は1円10銭だった。給料は安かったが固い商売という事で選んだ。初任給は、家計の足しにして、映画(当時の映画代が50銭)を観にいくのが楽しみだった。最初の勤務先は富浦駅で駅員、次に竹岡駅長、和田浦駅長、保田へと勤務が変わりました。昭和16年当時の汽車は2時間に1本くらいの割合での走行だったのでのんびりしていたそうだ。

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

ホウボウ、カマス、生メジマグロ、イサキ、アワビ、サワラ、サバ、サヨリ、シンコ、マコガレイ、トコブシ、クロムツ、アカムツ、タチウオ、真鯛、金目鯛、カツオ(勝浦産)、アジ、イワシ、コハダ、地たこ、ダルマイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、赤貝、自家製玉子焼き、ウニ、他
(魚介は全て天然物です)

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(クロムツ寿し)

皆様のご来店をお待ち申し上げます。

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連休中は、魚介が不足しますので、ご予約のお客様を優先させて頂きます
定休日は毎週木曜日です。(祝日の場合は営業)
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タグ:鉄道開通
posted by らかん at 11:45| Comment(0) | 保田の歴史、文化