2016年04月04日

賑やかだった保田駅前通り

鋸南町の気温は18℃ 雨

町報きょなんに懐かしい写真が掲載されました。
保田の交差点から保田駅前通りを見た風景です。写真左手前にあるのは一刀軒。一刀軒の前の建物は、当時は千葉銀行保田支店でした。昭和44年に保田支店は廃止され勝山支店に統合されて鋸南支店となり、この建物は保田支所として利用されていました。いつの間にか駅前通りの風景も形を変えて現在に至っています。
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また、ネットには貴重な写真もあります。これは表参道(保田側)から日本寺へ向かう石段です。今は御影石の綺麗な石段になっています。
千葉 鋸山 日本寺 自然の石段2.jpg

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)
カマス、甘鯛、真鯛、春日子鯛、金目鯛、ヤガラ、カツオ(勝浦産)、サヨリ、アジ、イワシ、サバ、コハダ、サワラ(金谷)、タチウオ、アマダイ、ホウボウ、クロムツ、ヒラメ、地たこ、アオリイカ、ヤリイカ、煮アナゴ、煮ハマグリ、サザエ、アサリ、赤貝、自家製玉子焼き(有精卵使用)、ウニ、イクラ醤油漬け、他

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(又木産の立派な金目鯛)

皆様のご来店をお待ち申し上げます。

※季節限定寿司、店主お勧め寿司ご注文に限り、平日に握り一個サービス中です
※ブログ読者様限定です。(4月20日まで)他のサービスとの併用は出来ません
※ブログを見たと伝えてください。

らかん寿し松月HP
ご予約はこちらからお願します。
お急ぎの場合は、電話でご予約をお願いします。
TEL:0470(55)1004
※連休中は、魚介が不足しますので、ご予約のお客様を優先させて頂きます
鋸山登山で渋滞を避けて楽しむ方法
佐久間ダム湖親水公園桜まつりは平成28年3月19日(土)〜4月10日(日)
※期間中は開花状況にあわせ、ダム湖周辺でライトアップが行われます。
佐久間ダム湖へは循環バスを利用されると便利です。鋸南町営循環バス時刻表.pdf
Facebookもよろしくお願いします。
posted by らかん at 10:25| Comment(0) | 保田の歴史、文化

2015年12月28日

鋸南町の歴史

鋸南町の歴史

縄文・弥生時代(紀元前200年頃)「田子の台遺跡」田子の台遺跡には現在竪穴式住居が復元されている。
古墳時代(大和時代300年頃)「浮島」浮島は伝説の島として景行天皇が浮島に行幸の際、磐六鹿命が魚介を調理して献上したという伝説も残っている。

奈良時代(725(神亀2年))「日本寺」鋸山に日本寺が建設される。海中より出現したと伝えられる梵鐘がある
平安時代(1180(治承4年))「源頼朝上陸地」石橋山の合戦に敗れた頼朝は三浦半島から逃れ、勝山海岸に上陸。兵をたてなおし、12年後に鎌倉幕府を築きあげる。上陸地には記念碑が建立されている。
(1181(養老元年))「日本寺」源頼朝日本寺復興。

鎌倉時代(1253(建長5年))「妙本寺」妙本寺の日蓮愛染不動感見記は、日蓮が開宗した翌年に描いたとされる書。初期の筆跡として大変貴重なもの。
南北朝時代(1333(元弘3年))「日本寺」日本寺兵火にかかる。
     (1335(建武2年))「妙本寺」日郷上人妙本寺を開く。

江戸時代(1630(寛永7年))「捕鯨」近代捕鯨の祖、醍醐新兵衛定明(初代)が生まれる。
1704(宝永元年)「捕鯨」近代捕鯨の祖、醍醐新兵衛定明(初代)没。このころまでに鯨突組を確立。
1779(安永8年)「安房の名工」 安房の名工(石彫り)武田石翁が生まれる。
1806(文化3年)「勝山藩」 小林一茶、勝山藩に駐留する。
1845(弘化2年)「捕鯨」 英国捕鯨船が勝山沖に停泊する。

明治時代(1869(明治2年))「加知山藩」加知山藩が設置される
(1889(明治22年))「保田海岸」保田村、勝山村、佐久間村発足。夏目漱石が保田海岸を訪れ、海水浴を楽しんだ。漱石自身も日記に書き記している。昭和61年に房州最初の海水浴として記念碑が建てられている。
(1906(明治39年))「旧鋸南町役場」勝山町役場が建築される。(現在でいう旧町役場)

昭和時代(1935(昭和10年))「源頼朝上陸地」源頼朝上陸地県史跡に指定される。
1948(昭和23年)「皇太子来町」 皇太子(平成天皇)が来町する。
1959(昭和34年)「鋸南町」鋸南町誕生(勝山町・保田町合併)
1968(昭和43年)「保田海岸」保田観光協会主催の第1回ミス・ミスター保田海岸ビューティーコンテストが開催される。
1968(昭和43年)「佐久間郷土資料館」 佐久間郷土資料館が開館する。
1968(昭和43年)「嶺岡林道」嶺岡林道開通式挙行。昭和60年にはヘルスパイオニアタウン事業で「歩け歩けコース」が完成している。
1969(昭和44年)「日本寺」鋸山日本寺の大仏が復元される。開眼法要が挙行される。
1970(昭和45年)「旧渚大橋」渚大橋が完成する。
1971(昭和46年)「町の木」町の木に「つばき」が選定される。
1975(昭和50年)「町章」「町章」が誕生する。
1981(昭和56年)「菱川師宣誕生之地」「菱川師宣誕生之地」の記念碑が完成する。
1982(昭和57年)「鋸南町役場」 鋸南町役場新庁舎が完成する。
1983(昭和58年)「鋸南町音頭」 鋸南町音頭が発表される。
1984(昭和59年)「中央公民館」 鋸南町中央公民館が完成する。
1985(昭和60年)「観光協会」 保田・勝山両観光協会が合併し、鋸南町観光協会が成立される。
1985(昭和60年)「菱川師宣記念館 菱川師宣記念館が完成する。
1986(昭和61年)「日本寺」ビルマ政府・ビルマ仏協会より仏舎利が日本寺に贈られ、奉迎供養法要
を挙行する。

平成時代(1989(平成元年))「日本寺」インドから日本寺へブッタガヤ聖菩提樹を贈呈、植樹法要が挙行される。

1989(平成元年)「見返り美人」 初代見返り美人コンテストが開催される。
1989(平成元年)「特産品」健康飲料「枇杷葉茶」、鋸南振興KKより発売される。
1989(平成元年)「鋸南町」鋸南町誕生30周年式典が行われ、タイムカプセルが埋設される。
1989(平成元年)「友好都市」辰野町友好都市調印式が行われる。
1990(平成2年)「大黒山展望台」町の新名所大黒山に展望塔建設される。
1995(平成7年)「統合中学校」 鋸南町立第1・第2中学校が合併し、統合中学校が建設される。
2000(平成12年)「駅前周辺整備」保田駅前観光案内所が改築される。同時に保田・安房勝山両駅前自転車小屋が改修され駅前駐輪場広場となる。

※この駐輪場広場を作った時の測量の不備によるものと思われるが、雨が降ると松月の旧家屋の敷地に大量の水が流れ込み、畳まで3度も腐る事態が続いている。役場に調査を依頼しても無視している。

2001(平成13年)「駅前周辺整備」安房勝山駅前観光案内所が改築される。
2002(平成14年)「新渚大橋」渚大橋が改修される。
2003(平成15年)「笑楽の湯」佐久間老人センターに笑楽の湯が完成する。
2004(平成16年)「セミナーハウス」旧鋸南第二中学校跡地に城西大学・城西国際大学セミナーハウスが竣工する。
posted by らかん at 19:08| Comment(0) | 保田の歴史、文化

2015年12月21日

【千葉県館山市史】より「石原純・原阿佐緒」について当時の状況

鋸南町の気温は、9℃ 曇り
水仙の花の開花状況はこちらをどうぞ!

【千葉県館山市史】から、「石原純・原阿佐緒」の当時の状況について、書かれた部分を以下に転載します。

館山市史(発行:昭和46年7月1日)
p1026 6安房美術と石原純・原阿佐緒

大正12年9月1日の関東大震災は、房州にもおびただしい被害を与えた。東京は地震そのものの被害は軽微だったが、火災の発生によって、焼野が原と化したのだといわれる。それに比較すれば、房州特に北条、館山付近は、直接地震によって受けた被害が、はるかに甚大で惨憺たるものであったという。それほど震災の被害が大きかった房州は、復興工事も遅々として捗らなかった。

震災前まではおびただしい海水浴客を迎えていた館山湾沿岸は、まだ海水浴客を迎えるほどに復興せず、漸く住宅だけをバラック建てにし、雨露をしのいでいた。そういう状態の北条町で、大正13年7月に、早くも美術展覧会が開かれたのだから、一般からは好奇の目で見られたに違いない。中には「いいご身分の人たちがいたものだ」となかば嘲笑的にいう人たちもあった。

主催者は、この美術展覧会を開催するために、俄に結成された「安房美術会」という団体であった。出品者の顔触を見ると、アララギ派の歌人であり、アインシュタインの相対性原理の権威である理学博士石原純、その恋の相手であり、同じアララギ派の美人歌人原阿佐緒などの名前も見える。

石原博士は東北帝国大学の勅人教授という地位にあり、また立派な家庭も持ち子供までありながら、その地位も家庭も弊履の如く捨てて、美人歌人原阿佐緒との熱烈な恋愛を成就させるため、大正11年11月以来、房州保田町(現鋸南町)に来て、しばらく旅館住居をしていたが関東大震災の年の初夏、2人のために住居を建築しそこに住んでいた。

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(ネットの拾い物ハガキ。当時の松音楼)

このご両人をはじめとして、日本画の金森南耕、石井君子、中村有楽等で、日本画あり油絵あり、水彩画あり書がありでバラエティに富んでいた。会場は大正4年の創業という、レストラン鏡軒であった。そういえば素晴らしい会場のように聞こえるだろうが、その実、この鏡軒も前年の地震で潰れ、まだ復興もせず、ようやく海水浴客が入り込む季節を迎えたバラックの葭簀張り(よしずばり)の小舎で、営業をはじめたばかりのところである。

もっとも、町内の建物という建物は、ほとんど倒れ。人の5、6人も集まることがあれば、その会場探しに苦労した時代でもあるから、バラックでも葭簀張りでも、会場があっただけでも見つけものであった。この「安房美術会」の誕生には、光雲・斎藤喜市・有楽・中村弥二郎の力が大いに預っている。光雲は人も知る眼科医で、俳人であり日本画も描けば油絵も描くという多芸の人である。

有楽はつい先ごろまで、東京で「東京パック」という大人向きの月刊漫画雑誌を経営発行していた文化人で、傘下には北沢楽天、下山凹夫、池部均その他、当代一流の漫画家が集っていた。その有楽が北条町八幡に来て、地方文化の向上のために、豪華な極彩色の地方雑誌「楽土の房州」を発行していたから、北条の文化人光雲とは大いに共鳴し合い、たちまち「安房美術会」の誕生となったのでる。

大正12年の夏、保田小学校裏の山の中腹に土地を求めた、石原純、原阿佐緒の両人は、石原博士自身設計して、文化住宅風の愛の巣を建てた。阿佐緒は断髪で、小娘の着るような派手な柄の和服を着たり、毛皮のオーバーを着たりして、常に厚化粧をしていたから、特に人目をひいたものである。石原博士はどこへ行くにも、その阿佐緒と鴛鴦(おしどり)のように仲よく出かけた。それが地元の人たちを強く刺戟したと見えて、なかには嫉妬半分で悪口をいうものも少なくなかった。

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「土から生れたような純朴な田舎の子どもや若い者たちの前では、少し考えて貰わなければ困る。ご両人は別に真似ろといって、あんな服装や態度をしているのではあるまいが、お一人は大学の勅任教授をされた方、お一人は歌人として有名な方だ。お二人はああして歩かれることは、真似るものが出るに違いない。もちろん真似るのも悪いといわれればそれまでだが、全く困ったものです」

一部の極端な評者は、保田町から去って貰った方が、教育上大いに助かる、というものもあった程である。またある者は、女学校長の口を借りてまで両人を非難したものもあった。そうした世間のいろいろな噂が、直接両人の耳に入ったかどうか、それはわからないが、大正15年ころから阿佐緒の服装が、やや地味になったことは事実である。

石原、原の両人が、住宅を新築した前後に石原博士は「靉日」という歌集を出版したため、ジャーナリストはすかさず、この家に「靉日荘」とか「靉日山荘」とかいう名をつけた。それが正式名称のように思われた。しかし両人はこの家を「紫花山房」と名づけ、自分たちではそう呼んだり、書くものにもそう書いていた。

保田の町民から両人が非難されたのは、あまりにも仲睦まじい間柄を嫉妬してのことと見てよいが、そんな一方では、この両人は房州の文化の向上に、大いに貢献したといってよいだろう。いままでは、田舎の小さな半農半漁の街として、普段は滅多に名士など来なかった保田町は、歌壇で名前を知られた人、学者、著述家、画壇の知名人、出版関係者などが、ほとんど毎日のように訪れて来た。当時の房州の文化の中心地は、北条町よりもむしろ、保田町に移った感があった。

房州の若い歌人たちは、両人を慕ってやって来た。その人たちのために「保田短歌会」を起して、毎月1回松音楼旅館で短歌会を開いた。房州出身の歌人で石原純とともに、歌誌「日光」の同人であった古泉千樫も、帰省したついでに、この会に臨んだこともあれば、田圃歌人と謳われた印旛沼の植庄亮も、この会に出席したことがある。若い歌人たちは、石原、原両人を中心として、月刊短歌雑誌「波止場」を発行し、歌道の精進に務めたが、その「波止場」も、第2号が出ただけで尻切れトンボになったのは、かえすがえすも惜しまれる。

阿佐緒は、毛糸編物が得意で、素晴らしい技術を持っていたが、そのことがいつか保田町の有志婦人の間にも知れわたったため、「紫花山房」に集って、編物講習会を受けるものが続出した。大正15年の冬には、阿佐緒は自身の制作品や、受講者の作品を集めて即売会を兼ねた展示会を開いた。当時、北条善導会館(現館山市公民館)の敷地内に建っていた北条文庫(北条町教育談話会経営)がその会場であった。3日間にわたって開催されたが、即売会は相当の売り上げがあったところと見ると、阿佐緒の技術は、その道の専門家を凌ぐものがあったに違いない。

安房美術会は第2回美術展覧会を、新築落成間もない安房復興館(現安房支庁舎)で開き、その後も会場は転々として変ったが、毎回入場料を取りながら、かなりの入場者があり、地方文化の向上に大きな役目を果した。しかし、保田町に居住していた石原、原両人が昭和3年9月末から、東京に去ってからというもの、安房美術会展も骨が抜けたような形となった。もっとも、保田町は元の静けさを取り戻したような感があった。

安房美術会が、毎年1回美術展会を開催したおかげで、房州人の美術思想が次第に向上したことは歪めない。その点では大きな功績を残したといってよい。特に昭和9年5月25日から31日まで、東京日本橋・白木屋デパートの7階で開催した「房州風景紹介展覧会」は大英断の試みであったが、出品中に売約済みが相当あって、成績は頗る良好、予想外の成功を収めたのは何よりの自慢である。

この展覧会は、安房美術会とすれば、第15回展覧会であったが、はじめての東京進出だけに、開催に当たっては充分慎重を期し、実行委員5名を上げた。その顔触は斎藤光雲、金森南耕、西宮六白子、本堂龍城、小林猶治郎である。この会を東京で開催した目的は、館山湾をはじめ房州には、夏の海水浴に適した土地がたくさんある。海水浴には向かないが、景色のよいところも多い。それらの風景を東京人に紹介し、海水浴客ばかりでなく、一般観光客を呼び寄せようというのである。だから、房総観光協会、東京湾汽船株式会社その他の後援を得て開催したのである。結果として意外に好評を博し、売約済みの札の張られた作品も多く、予期以上の成功を納めたのは幸運であった。

この安房美術会も、日華事変が勃発してからは、展覧会どころでなく、腕を拱いていたずらに制作欲を燃やした。しかし安房美術会の有力メンバー斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の3人は、日華事変勃発1周年を迎えようとする昭和13年4月3日。大陸戦線で勇猛果敢に戦いながら、壮烈な戦死を遂げ、声なき凱旋をして肉親や郷党の涙をさそった勇士たちの遺影を、油絵肖像に揮毫し、遺族に贈呈する計画が纏まった。・・・肖像画は館山北条町出身の11勇士と、寄留者2勇士計13人勇士のものである。

この肖像画のほかに46版型のパンフレット「事変の華・館山北条町11勇士」を印刷した。この中には戦歿者の肖像画を写真版で挿入し、簡単な戦歴まで付記した。この小冊子は遺族に贈呈したほか、各方面に寄贈し、輝かしいその戦功をたたえたのである。巻頭言に「昭和13年7月7日、支那事変1周年記念日。この油絵肖像画(6号型額縁付)を無言の凱旋者御遺族に贈呈す」と記してある。

3人の合作によって完遂できた、戦没者肖像画贈呈の美挙は、時の千葉県知事多久安信に認められ「銃後の彩管報告者」として斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の名前で表彰状が授与された。・・・会長に夏井清を推戴したが、何分にも運営がうまくゆかず、いくばくもなくして再び会長は斎藤光雲を戴いて現在に及んでいる。90歳の高齢でありながら、いまなおかくしゃくとして制作に従事しているばかりでなく、展覧会場の飾り付けには率先して働いているのは、敬服に値する。若い人たちは鑑みとすべきである。
(日本製原爆完成全文より)

本日入荷の寿司種です。(入荷が少ないものは、早めに無くなるものもございます)

タチウオ、寒ブリ、車エビ、シロメ昆布〆、皮ハギ、真鯛、花鯛、金目鯛、ヒラメ、サワラ(金谷産)、アジ、いわし、コハダ、地たこ、いか、サバ、アナゴ(羽田沖)、サザエ、アワビ、自家製玉子焼き(有精卵使用)(ウニ、赤貝、イクラ醤油漬け、マグロズケ、トロ他)

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(サワラ寿し、旨味甘みが最高です)

皆様のご来店をお待ち申し上げます。
※年末は30日まで営業致します。
※年始は1月2日から営業致します。
posted by らかん at 08:19| Comment(0) | 保田の歴史、文化